失われた鰻重を求めて―三谷幸喜「大地 ソーシャルディスタンスver.」配信の感想など

私は鰻重が好きだ。絶滅が危惧されていて、私が生きている間に絶滅するだろうって言われている鰻。鰻重がなくなった世界を想像するだけで寂しい。

ここ最近の動向をみながら、鰻重と演劇って似てるな、と思った。「〇〇がなくたって死ぬわけじゃない」と意味では鰻重も演劇も一緒。鰻に興味ない人からみたら「鰻くらいで騒ぐなよ」な話。でも月に一度、半年に一度の鰻重を楽しみに生きてる人もいる。鰻重でなければ満たされないものを持ってる人たち。それを別材料で「まるで鰻!」「新素材は安くて便利!」とか宣伝されても、「まぁ…それはそれで美味いのかもしれねぇし、食べさせてもらえるってのはありがたいけどもさ…そりゃお前、やっぱ鰻ではねぇわな…鰻とは違うもんだよやっぱりなぁ…仕方ねえこととはいえ、鰻重のねぇ世の中なんて張り合いがねぇもんだ本当によ…」と江戸っ子風に嘆きたくなる。

演劇を鰻の蒲焼にたとえると、配信って「鰻の蒲焼風の別のもの」なんだよな。食べるとかえって鰻の不在をつきつけられて悲しくなる。鰻価格が高騰し始めた頃、鰻ではない別の材料で作る「まるで鰻」レシピが取り上げられてたけど、「これはこれで美味しいけど…鰻ではない…」ってなったのと同じ。

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7月頃に、Twitterにこんなつぶやきをしていた。

「ウイルスとの闘い」という名の戦争状態が突然始まった。その影響で3月頃から劇場は軒並みクローズ。あと一年くらい、戻るのは無理だろうなぁとか思ってたけど、ようやく分かった。私が愛していた演劇が,劇場がある世界は,あの日終わらされたんだと。

だからといってこの社会状況の中で元に戻れと言っても元に戻らないのだから、仕方がない。ただ、元通りになっていない状態でリリースされたものを「配信でも十分楽しい!」「コロナ禍の中で生まれた新しい表現!」などと見せかけのポジティブを演じて自己欺瞞したくない。失われたものをまっとうに悼みたい。

細部の表現形式はどうあれ、劇場という物理的な空間に観客を集めて、演者が発する言葉や動きが空気をふるわせて観客のもとに届き、観客の反応がまた空気をふるわせて演者に届くという、生の相互作用こそが醍醐味という演劇を、劇場の空間を、私は愛していたので。それがないなら「演劇」とは呼べない別の物。少なくとも私にとっては。

配信でこちらがリアクションできる仕組みも色々あるのは知ってるけど、あれで交換できるものって所詮データで。データのやりとりと生身の対面で交換できるものって、全然違う。新しい形に「柔軟に」「適応」していくことこそ賢いのだと見せかけのポジティブは楽だけど、喪失を認めなければ。

薬ができたら「解決事案」として処理されて元の形が戻ってくるかもしれないけど、来年また「新型」とされる別のウイルスが発見されたらどうするんだろう。その頃には「もういいから寝た子を起こすな」という世論になっているのかしら。

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そんな中,三谷舞台の「大地」のライブ配信があった。三谷幸喜の新作舞台「大地」は「ソーシャルディスタンス」(ていうか俳優同士の物理的距離)を保たねばならない条件を生かした強制収容所という設定で、Twitterでもずいぶん評判が良かった。

私は上記のような立場だから、配信を観る気はあまりなかったのだけれど、とにかく評判が良いので気になったし、「ソーシャルディスタンスバージョン」なるものを目撃せずにいるのもなんだか惜しいという煩悩がはたらいた。それに、通常ならほぼチケットがとれない三谷舞台の新作を3千円で観られるなら、という下心も正直あった。

感想はというと。前半は楽しんだ。役者同士の接触・近接がなくとも違和感のない収容所設定、俳優たちの技術と個性を余すことなく活かす、キャラの立った群像劇の巧さは流石。

二幕はもろもろ無茶。収容所という設定だが、コメディに走りすぎて全体的に緩くなってしまった。収容所の緊張感が失われた結果、ラストの葛藤にもリアリティや説得力を欠いている。コメディ俳優たちがうまいのだが,動きやキャラで遊びすぎ、演劇というよりコントで笑わせようとするシーンの連続にやや白けてしまう。もしかするとこれは、生で観劇していれば場の空気で笑えたのかもしれない。

最後、演劇界と役者の精神論に着地したのが演劇人三谷氏の良心のように感じられつつ、「板の上に残れる者と残れない者」というショービジネスの中の人たちの話でまとめられてしまうと、「収容所」設定で期待した批評・風刺の射程がずいぶん短く内輪的に感じられ、物足りなくもあった。まぁ三谷さんは「風刺の人」ではなくやっぱりエンターテイメントの人だから、そこを色々いうのは的外れかもしれない。
配信はカメラワークも凝ってて悪くはなかった。ただ顔のアップが多くTVや映画をみてるのと変わらない。劇場で観劇してる感じはなし。戻って再生とかもできないから、「3000円は高い」という感想が正直なところ。映画なら定価でも2000円弱だからね。

三谷舞台は通常ならそもそもチケットがとれないから、そういう意味では配信ありがたいけど、じゃあ今後も3000円払ってでもみるかと言われると微妙。「ソーシャルディスタンスを逆手にとって,そうでなくては成立しない演劇作品に昇華した」とまでは言えないと私は思った。

でも、役者の身体とそれをみる観客がいれば演劇になる、っていう台詞には、演劇への愛が感じられて嬉しかったな。ほんとその通りだと思う。作り手も、きっと忸怩たるものがあるだろうと思いながら、でもこれではないんだと思いながら、観た。