舞台「パレード」を観てきた

舞台「パレード」みてきた。これはすごい。

ミュージカルの持つ「陶酔させる」+「登場人物の内面にある感情を何倍にも増幅させて示す」という特徴が、本作のテーマである「差別と扇動」「冤罪と群集心理」にかけ合わさると、これほど批評性の高い舞台作品になるのかと驚いた。

特に1幕後半の裁判シーン、嘘の証言に煽られ容疑者叩きが「祭り」(=パレード)化していくシーンは圧巻。生オケで、曲もテンポも演者の技術も高い優れたミュージカル(舞台上の群衆と一緒に「気持ちよく」陶酔し熱狂したい欲望が嫌でも駆り立てられる、そんな水準)で、だからこそ舞台上で起きていることの「気持ち悪さ」が際立ち、重く鋭く観客に問いかけてくるという構造。

大量の紙吹雪を舞台に積もらせた「見立て」の巧さ、回り舞台、くっきりとした陰影・色を駆使した照明など、物語や登場人物の心理を視角で表現する森新太郎さんの演出も効果的。森新太郎さんは本作初演がミュージカル初演出だったと知り、これは評判になるわけだ、となんだか納得してしまった。

個人的には、高水準のストレートプレイを作ってきた人が、ミュージカルを少し引いて(メタにみながら)演出する、その良さが今作の内容とよくマッチしていた気がした。

ミュージカルの技術はむちゃくちゃ高いし楽曲も素晴らしい。にもかかわらず、ミュージカルの表現形式それ自体がテーマの核となる「悪」をはらんでいるという批評性。それに酔いしれる観客=冤罪祭りに加担する群衆と同じになってしまうというメタ構造。そういう、観客に鋭く突き付けてくる感じが、これぞ演劇という気がして、とても好きだった。

20世紀初頭の南北戦争直後のアメリカ南部で起きた北部出身ユダヤ人冤罪事件という史実としても見ごたえがあるし、「正義」の名のもとで「祭り」に嵩じたがる現代の私たちへの問いかけとしても普遍性を持つ作品。

ミュージカルファンでもストプレファンでも必見と思う。ここのところ、観劇から心が離れていたのだが、久々に大満足の観劇体験で劇場の魅力を思い出した。ひとり気持ちが盛り上がって、会場でもらったチラシ束から気になった作品をいくつかチケット予約してしまった。

A.B.C-Z映画「オレたち応援屋」をみてきた

A.B.C-Z主演映画「オレたち応援屋」を観てきた。

総合的には良かったと思うけど絶賛ではない。ネタバレあります。

 

1. 良かったところ

1) ストーリーが普通に面白い。謎を残してあるので、最後まで「どうなるのかな」と見続けられる。

 

2) 離島の人口減少と地域活性化という現代的テーマが割とリアリティあり。島から出る人、出ない人、コミュニティの中でのコミュニケーションなどなど。1)とも関連するけど、物語を推進する上での「摩擦」や「謎」が社会的なテーマ上に置かれているので、はたからみて問題の所在に共感や理解がされやすくなっている(個人的なことではなく社会的なこととみなされるので)。

 

3) 雷神の舞シーンがいい。A.B.C-ZやJr.のダンス、やはり美しい。加えて、大人数のエキストラが一緒に踊る迫力。華やかさや男らしさや一体感あふれるダンスを大画面でみられるだけで「元が取れた感」。まぁもう少し長尺でみたかったけど、もう少しみたいくらいがちょうどいいのかもしれない。

 

4) エンドロールからメイキング映像のお得感。特にメイキング映像の五関さん最高だったなぁ。五関さんの笑いのセンス、頭がいい、筋がいい、品がいい。

 

5) 脇を固める俳優の皆さんのコメディ演技がいちいち小ネタがあって楽しい。特に役場の人たちの芝居が笑えた。

 

6) わたし河合担なんですけど、河合くんは映像の演技が取り立てて巧い人ではないから、「変な関西弁キャラ」っていうトリッキーな設定がかえって良かった気がする。あとメイキング内、怒ってる顔がひたすらに美しかった。

 

2. 良くなかったところ

1) マドンナ設定(&変顔)とマドンナ母の手の動きSEが不要。

 

マドンナ先生をめぐるコメディ部分が変顔を含め、ほぼ全て滑っている。私が入った映画館客席で、変顔シーンや風呂場で覗きにトライするシーン(これまた何回も繰り返される)ではクスリとも笑いが起きなかった。

ジャニーズ作品の文化はいわゆる「男子校」「ホモソーシャル」でいいんだけど、そこに具体的なマドンナ先生は出しちゃいかんのよなぁ。ホモソーシャル前提の構図の中で生身のマドンナ登場させたら女が対象化されてセクハラまがいになりがち。

キャスティングも原因の一つ。ホモソーシャル前提作品なら大体女は神格化されるか悪役かなんだけど、神格化するには、今回のマドンナ先生のルックスや、物語の中でやってること(全然、教員の仕事してない)に説得力がなくて、そこを軸にコメディ(変顔やお風呂の覗き)&感動(生徒の挨拶)を構築しようとするから、一層なんだかなぁ…になる。

みながら思ってたのは、「男に対象化されるマドンナの存在がなければ、コメディは作れないのだろうか」ってことだったなぁ。今もそんなコンテンツあふれてるから、別に悶々としたり腹が立ったりはしなかったけど、考察はしたくなった笑

 

2) デブの身体は好きに弄っていいのか?

まぁマドンナ問題は「ファンの嫉妬でしょ」と切り捨てられるかもしれないが、私が一番「これはあかん」と思ったのは、むしろ冒頭のシーン。太った男子がゴールしたあと、河合くんと親友が男子のお腹の肉を揉む。

太った男子のお腹の肉を、運動のできるクラスメイト(スクールカースト上位者)と他所者の大人が勝手に揉みしだく。

絵的に面白くもなんともないし、何より、「応援屋の応援で走り続ける姿をみて、他のクラスメイトたちも応援する気になった!そしてゴールできた!応援の力!」という、この物語の要となるシーンなのに、「太った人の肉体は勝手に弄って笑っていい」という要らんメッセージが発信されてしまう。あれは絶対にやるべきではなかった。

 

要はコメディの基盤がルッキズムなのが安易なんだよね。それも巷のバラエティや映画ドラマで散々あふれてるから、「同じことをして何が悪い?」なんだろうけど。そしてA.B.C-Zがコメディをやるとしたら、ああいう安易な形でしかできないと思われているのも悔しい(実力的にはそれが図星かもしれないし、河合くんが最近TVで「勉強している」笑いがまさにそのものなのかもしれないけれど)

 

まぁでも、監督が狙ったコメディパートは、五関さんの「ずらし」の良さで成立してるところがかなりあって、A.B.C-Zにおける五関さんの存在のありがたさを思った。A.B.C-Zのこういう仕事のとき、大体五関さんの存在に救われてる説が自分内にはある。

 

3) 謎の真相が明らかになってみたら、答えは「町長の個人的な感情&部下の私物化」ってのが安易すぎ&リアリティなさすぎで椅子から転げ落ちそうになった。20年間も追及されなかったのは何故…まぁ祭りなんてなくても食っていけるしねってこと?あと部下は町長に言われたらなんでもするのは、何かすごい見返りがあったの??疑問がいっぱい。でもこのへんはもう物語を転がすためにしょうがないのかなーって気もする。

 

4) 追記。地方(離島)の人口減少問題、という設定自体が古い感。日本の地域問題にしたのはいいんだけど、どうも全体的に東京都心中心主義が見え隠れして、あぁこのノリは80年代後半から90年代くらいの雰囲気だな、と、古さを感じた。最近だと地方移住も注目される中、「地元を出る高校生」vs「地元に残る高校生」っていう対立軸が平板だし、この離島は出て行くだけでUターンで地元に戻って起業しようとかいう人が全くでてこないのが、現代の状況を考えると不自然なほど。

多分作り手の中に、「地方や離島=廃れていくだけの場所」「みんな東京に行きたがるもの」という価値観があるんだろうなーと思った。まぁ映画とか演劇でもこういう価値観で今も凝り固まってる人は多い。

島で生きてきた大人の暮らしや考えもほとんど見えてこなくて、役場の業務を私物化してる役人と政治家、高齢者は半ばボケちゃってる、みたいなキャラ設定も浅い。

 

という感想ですが、総合的には結構楽しめたし、主題歌の「頑張れ、友よ!」も大好きで。

理想を言えばきりがないんだし、A.B.C-Zの通っていく道一つ一つを目撃していけるのは、とても楽しい。

 

追記:

ツイッターみたらこの映画にすごく怒ってる人もいて、自分が歳をとったことを実感した。私も若い頃怒ってたなぁ。20年前と比べたら少なくともCMは随分変わった。ルッキズムや貶して弄ってナンボの笑いもあと20年くらいしたら変わっていくね。

 でも、「女の子が笑顔でさりげなくセクハラをいなすシーンが許せない」って言ってる人いるけど、あの拒絶の仕方は全然さりげなくない気がしてて。私なんかは、あんな風にセクハラ親父をジェスチャーで拒絶できたら良かったなぁと思ったので。そもそも人の体に断りなく触るな、という論点なら分かるけど。

「やめてください、嫌いです」ってハッキリ言い放つのみが正解、なら、コミュニケーションとしてあまりに選択肢が少ないと思うし、そういうのは結局自分の首をしめるリスクがあると思う。

「そもそも意思を確認せずに体に触るなよ」なら分かる。先述の太った男子の身体なら勝手に触っていいのか問題と通じる点だよね。私はむしろ、太った男子もお腹を揉んでくる人の手を笑顔で振り払うくらいのジェスチャーが欲しかったな。

 

追記:

さおり先生も応援屋舞台のマドンナも、男が思う、男社会にとって都合のいい「天然」だから白ける、ってのが本質だと思う。マドンナ扱いされてる女で自分がマドンナ扱いされてることに気づいてない人ってほぼいなくて、でも気づいてないふりで接してあげたりそれを逆手に利用したりもしてて、さおり先生も役場の男性の自分への好意を利用して神社?の鍵を開けさせてるわけで、自分の性的魅力を利用して利益を得ようとした結果、その見返りとして肩に触れられて、それをキッチリ拒絶してるんだから、このシーンをもって単純な「セクハラ被害者」扱いはできないって思うのね。

もちろん「女性は性的魅力を利用するしかないんですこの男優位社会では!」って反論もありうるけど、映画をみる限り、高校教員としての日々の目立たない仕事を頑張ってるとかのシーンはなく、性的魅力を武器にしてる所しか描かれない。周囲を手玉にとってマドンナ楽しんでる人のようにしか見えない

で、そういう女性の描き方自体がミソジニック(女性嫌悪的)なんだよね。性的対象としては崇拝し欲情するけど人間性は見下すという、監督はじめ一部の男性にみられる歪んだ女性像。 私は、セクハラへの対処や軽犯罪の扱い以上に、女性キャラクターの位置付けに現れたミソジニーが問題だと思う。

「応援屋」の5人のモチベーションも「か弱い美人が俺たちを頼ってくれている!!」なのも、先述の構図に乗っかった男性像であり、それが何よりも白ける原因なんだよな。ジャニーズやA.B.C-Zは、そういう男性像や男女間の力世界から脱却した「夢」を体現する存在なのに。

ジャニー喜多川演出の場合、女が出てこないか、出てきても自分の仕事や技術や夢を持ってる主体性のある存在として登場してるし(もしくは母)、ジャニーズのタレントが演じる役が女を単なる性的対象物として欲望し、それを動機に行動するなんてことがありえない。別にジャニーさんの舞台作品を絶賛する気はないけど、少なくともミソジニーやそれに基づく男女間関係の構図を舞台作品にして劇場に閉じ込めた客にみせる、ということはしなかった。それは日本における大衆向けのエンターテイメントとしてはかなりすごいことだと思う。

だからまぁ、今回の件で悔しいなぁと思ったのは、監督だか脚本家だか分からないけど、そういうミソジニックな歪んだ価値観のもと構築された世界の中でA.B.C-Zが使われた、ということ。女性だけじゃなく肥満差別もあるから、いわゆる男性強者というか、いじめっ子の思想が根底にあるんだろうけど。

野田秀樹「赤鬼」について――見えないものへの「精神の暴発」

「コロナ禍」のもと、劇場に行けない「新しい日常」が突然やってきて、今もその日常が続いている。

3月頃に劇場がその扉を閉め始めた頃、ほんの数か月もすればこの騒動は終わって元に戻るだろうと、私はたかをくくっていた。だが騒動は終わらず、「感染者」への差別が始まった。出演者に感染者が出たという舞台では、観客の女性が観劇回数までさらされ、「感染者」が一人でも出た学校は休校して消毒せねばならなくなった。マスクやシートごしでない対面の会話は「飛沫感染」の温床になるから回避すべしという規範が浸透した。

6月頃、私はふと悟った。あぁもう元になど戻らないのだなと。もちろん、「感染対策」なるものを徹底した形での観劇は徐々に可能になっていくだろう。リモート演劇やソーシャルディスタンス演劇も新しい表現形式として発展していくのかもしれない。それでも、「元の状態」には、戻らない。喪失を認めるのは辛い。「まだ元の状態に戻る」という希望にすがりたい。でも多分、元には戻らない。

演劇のせいでも観客のせいでもなく「ウイルスとの闘い」という戦争が始まったことで、2019年までの、私が好きだった演劇は、劇場という空間は、終わらされ、変わらされた。

「死ぬまでにあと何回、舞台がみられるかな」が口癖だった私。ある日突然、劇場が閉じる日が来ると、どうして想像すらしなかったのだろう?そんな日が来るのは自分が寿命をまっとうした後だなどと、どうして無邪気に信じていられたのだろう?

幸せだったのだ、私は。世界中の劇場で、数え切れないほどの舞台作品が自由に上演され、客席がそれを目撃している、そんな世界に生きていた私は。地球が回る限り、日本でも地球の裏側でも「幕があがる」日常に生きていた私は。

でもよくよく考えれば、人の命や生きることも同じかもしれない。愛する人とも愛する場所とも、いずれは別れが来る。生きている限り、その別れの瞬間に一秒ずつ近づいているというだけの話。あまりにも突然だったから、別れを受け入れられずにいるだけなのだ。

劇場にいる時間が好きだった。幕が上がり降りる上演の間だけに生まれ死んでいく舞台上の命。そんな儚くも一回限りの命のような芸術である演劇が、私は好きだった。観客席から舞台を見つめる時間が好きだった。暗い観客席に座る私は、つかのま現実の自分という存在を脱ぎ捨てて、匿名で無名の存在の一つとして、舞台上で生きる命の輝きと終わりに立ち会える。舞台上の命と観客席にいる無数の見知らぬ人々と同じ時間を共有して、客席が明るくなり共有した時間をそれぞれに持ち帰っていく、あの不思議と心強いような時間。劇場の外に出て現実の生活に歩みを進めるときの、どこかよるべないような感傷。

劇場という物理的な空間に観客を集めて、演者が発する言葉や動きが空気をふるわせて観客のもとに届き、観客の反応がまた空気をふるわせて演者に届くという、生の相互作用こそが醍醐味という演劇を、劇場の空間を、私は愛していた。それがないなら私にとっては「演劇」ではない。

と、失われた演劇の空間を思うといくらでも懐かしさと不在の悲しみを吐露できてしまう。もうやめよう。

さて。こんな中でも少しずつ上演が再開され、そのいくつかをみたので感想を書く。野田秀樹作演出による「赤鬼」はその一つだ。「失われた」とか言いながら結局みてるんじゃねーかと言われるかもしれないけど、劇場の緊張感を思えば以前と同じとは誰も言えないだろう。それでも、この観劇は私に少しだけ光をくれた。

  

野田舞台「赤鬼」の感想:

舞台と客席の間には飛沫防止のシート。それを取り囲むように四方に座席配置。各座席は隣との間隔をあけてあった。もぎりはチケットに決して触れず、自分でちぎって箱に入れる方式。入り口で手のアルコール消毒。マスク着用のお願い。

始まる前は飛沫防止シートが光ってみえづらいかと思ったが、始まってみればあまり気にならず。シートのせいか舞台上と少し距離があるような声の届き方は気になったが、とても面白かった。90分休憩なしがあっという間。

「異質なもの」への差別の物語。パニックに陥る村人がいまの現実を描いているかのよう。こういう演劇をみたかった!と思った。

パンフレットの野田秀樹の言葉も秀逸で,ここに今回の「赤鬼」公演のもつ最も本質的な意義が書かれている.残しておきたいので,以下に引用する。

 

(以下,引用.太字箇所は原文ママ

私はかつて芝居を始めた頃「新世代」と呼ばれていた。今は,コロナで「死ぬ世代」と呼ばれている。・・・・こういうブラックジョークでさえ、自粛が強制されそうな厄介な時節である。「精神」まで自粛する必要はないだろうに、我々の「精神」は、これまた厄介にできている。ひとたび,見えないものを怖がり出すと、見えないだけに、その「恐怖心」はなかなか拭い去れない。だから,ひとりでに「精神」は心の中で自粛し始める。そして,自粛したままなら良いのだが、その「見えないもの」に耐えきれず、時に「精神」は暴発する。向かう先は「他者」である。

この『赤鬼』は、まさにその「精神の暴発」を描いている。別の言葉で言えば「偏見」であり「差別」である。そして「差別」は、今の言葉で言うなら、まさにとの「距離」の問題でもある。というわけで、この『赤鬼』は運悪くイムリなものになってしまった。けれどもこの時節だからこそ,やる価値も見る価値もある作品に仕上がってしまった。そう信じて疑わない。

「表現」は、恐怖心とは、また別の、人間が誇るべき「精神の暴発」だからである。

野田秀樹

(以上,『赤鬼』公演パンフレットより引用)

 

f:id:wagahoshi:20200810060816j:plain

2020年7月『赤鬼』上演パンフレットより




 

失われた鰻重を求めて―三谷幸喜「大地 ソーシャルディスタンスver.」配信の感想など

私は鰻重が好きだ。絶滅が危惧されていて、私が生きている間に絶滅するだろうって言われている鰻。鰻重がなくなった世界を想像するだけで寂しい。

ここ最近の動向をみながら、鰻重と演劇って似てるな、と思った。「〇〇がなくたって死ぬわけじゃない」と意味では鰻重も演劇も一緒。鰻に興味ない人からみたら「鰻くらいで騒ぐなよ」な話。でも月に一度、半年に一度の鰻重を楽しみに生きてる人もいる。鰻重でなければ満たされないものを持ってる人たち。それを別材料で「まるで鰻!」「新素材は安くて便利!」とか宣伝されても、「まぁ…それはそれで美味いのかもしれねぇし、食べさせてもらえるってのはありがたいけどもさ…そりゃお前、やっぱ鰻ではねぇわな…鰻とは違うもんだよやっぱりなぁ…仕方ねえこととはいえ、鰻重のねぇ世の中なんて張り合いがねぇもんだ本当によ…」と江戸っ子風に嘆きたくなる。

演劇を鰻の蒲焼にたとえると、配信って「鰻の蒲焼風の別のもの」なんだよな。食べるとかえって鰻の不在をつきつけられて悲しくなる。鰻価格が高騰し始めた頃、鰻ではない別の材料で作る「まるで鰻」レシピが取り上げられてたけど、「これはこれで美味しいけど…鰻ではない…」ってなったのと同じ。

*

7月頃に、Twitterにこんなつぶやきをしていた。

「ウイルスとの闘い」という名の戦争状態が突然始まった。その影響で3月頃から劇場は軒並みクローズ。あと一年くらい、戻るのは無理だろうなぁとか思ってたけど、ようやく分かった。私が愛していた演劇が,劇場がある世界は,あの日終わらされたんだと。

だからといってこの社会状況の中で元に戻れと言っても元に戻らないのだから、仕方がない。ただ、元通りになっていない状態でリリースされたものを「配信でも十分楽しい!」「コロナ禍の中で生まれた新しい表現!」などと見せかけのポジティブを演じて自己欺瞞したくない。失われたものをまっとうに悼みたい。

細部の表現形式はどうあれ、劇場という物理的な空間に観客を集めて、演者が発する言葉や動きが空気をふるわせて観客のもとに届き、観客の反応がまた空気をふるわせて演者に届くという、生の相互作用こそが醍醐味という演劇を、劇場の空間を、私は愛していたので。それがないなら「演劇」とは呼べない別の物。少なくとも私にとっては。

配信でこちらがリアクションできる仕組みも色々あるのは知ってるけど、あれで交換できるものって所詮データで。データのやりとりと生身の対面で交換できるものって、全然違う。新しい形に「柔軟に」「適応」していくことこそ賢いのだと見せかけのポジティブは楽だけど、喪失を認めなければ。

薬ができたら「解決事案」として処理されて元の形が戻ってくるかもしれないけど、来年また「新型」とされる別のウイルスが発見されたらどうするんだろう。その頃には「もういいから寝た子を起こすな」という世論になっているのかしら。

*

そんな中,三谷舞台の「大地」のライブ配信があった。三谷幸喜の新作舞台「大地」は「ソーシャルディスタンス」(ていうか俳優同士の物理的距離)を保たねばならない条件を生かした強制収容所という設定で、Twitterでもずいぶん評判が良かった。

私は上記のような立場だから、配信を観る気はあまりなかったのだけれど、とにかく評判が良いので気になったし、「ソーシャルディスタンスバージョン」なるものを目撃せずにいるのもなんだか惜しいという煩悩がはたらいた。それに、通常ならほぼチケットがとれない三谷舞台の新作を3千円で観られるなら、という下心も正直あった。

感想はというと。前半は楽しんだ。役者同士の接触・近接がなくとも違和感のない収容所設定、俳優たちの技術と個性を余すことなく活かす、キャラの立った群像劇の巧さは流石。

二幕はもろもろ無茶。収容所という設定だが、コメディに走りすぎて全体的に緩くなってしまった。収容所の緊張感が失われた結果、ラストの葛藤にもリアリティや説得力を欠いている。コメディ俳優たちがうまいのだが,動きやキャラで遊びすぎ、演劇というよりコントで笑わせようとするシーンの連続にやや白けてしまう。もしかするとこれは、生で観劇していれば場の空気で笑えたのかもしれない。

最後、演劇界と役者の精神論に着地したのが演劇人三谷氏の良心のように感じられつつ、「板の上に残れる者と残れない者」というショービジネスの中の人たちの話でまとめられてしまうと、「収容所」設定で期待した批評・風刺の射程がずいぶん短く内輪的に感じられ、物足りなくもあった。まぁ三谷さんは「風刺の人」ではなくやっぱりエンターテイメントの人だから、そこを色々いうのは的外れかもしれない。
配信はカメラワークも凝ってて悪くはなかった。ただ顔のアップが多くTVや映画をみてるのと変わらない。劇場で観劇してる感じはなし。戻って再生とかもできないから、「3000円は高い」という感想が正直なところ。映画なら定価でも2000円弱だからね。

三谷舞台は通常ならそもそもチケットがとれないから、そういう意味では配信ありがたいけど、じゃあ今後も3000円払ってでもみるかと言われると微妙。「ソーシャルディスタンスを逆手にとって,そうでなくては成立しない演劇作品に昇華した」とまでは言えないと私は思った。

でも、役者の身体とそれをみる観客がいれば演劇になる、っていう台詞には、演劇への愛が感じられて嬉しかったな。ほんとその通りだと思う。作り手も、きっと忸怩たるものがあるだろうと思いながら、でもこれではないんだと思いながら、観た。

「天国の本屋」(2020年1月よみうり大手町ホール)感想

天国の本屋、みてきた。原作の美点が何倍にも膨らまされた、まさに「ミュージカルの力」を体感できる舞台。朗読の劇中劇と本編のストーリーがシンクロする展開を、脇を固める俳優陣の高い技術がテンポよく過不足なく成立させ、ストレートなラブストーリーパートでは、主演・ヒロインの華やかさと透明感が印象的。さわやかな後味の感動。

1 ミュージカル愛、その必然性

特に私がこの作品のことが好きだと思えたのは、作り手の「ミュージカル愛」と「ミュージカルを作る才能」が余す所なく発揮されているところ。「ミュージカルでしかできないこと」をやって、きちんと成功しているところ。

原作小説を読んだときは「この主人公のモノローグ、台詞で言わせたら説明的で不自然で鬱陶しいだろうなぁ…」と思っていたのだけど、ミュージカルだとモノローグが違和感なくいけてしまう。ストレートプレイなら「いやいやいや人はそんな簡単に喜怒哀楽を激しく表現したりしないでしょ」ってなるところなんだけど(だからこそ脚本での台詞の取捨選択や掛け合いの間合いのうまさ、役者の秘めた感情の表現の仕方・細部なんかがいっそう重要になってくる)、そうだよねぇそれがミュージカルの強みだよねぇと思った。

それから、天国の本屋、朗読の劇中劇をミュージカルで(しかも楽曲も技術もガチな水準の)やったのが本当に面白かった。誰もが知ってる童話も、プロがちゃんとミュージカルすると圧巻になってしまうという説得力。舞台はストプレから入った人なので、このあたりはやっぱりミュージカルってすごいな~!と思う。
 
まずもって、「この作品、期待できる…!」と客席全体に強く印象付けるのが、最初の劇中劇「ヘンゼルとグレーテル」の父親の歌唱力の高さ。「あれ?私今日、四季劇場に来てたのかな?」ってなるし(白山博基さん。調べたら四季のキャリアをお持ちの方でした。素晴らしかった。また観たいし聴きたい)、継母歌い出したらマダムテナルディエかな?ってなるし(伯鞘麗名さん。シアターダンスが美しい)、ヘンゼルとグレーテルの月の歌で泣くっていう。
ヘンゼルとグレーテル」という童話でさえも、上手なミュージカルにかかれば大人も感動させてしまうという、ミュージカルの力を見せつけるお手本のような劇中劇。
そして、さらに素晴らしいのは、ミュージカル劇中劇の「使い方」。こんなにも巧みなミュージカル劇中劇がここで挿入されなくてはならないのは、主人公さとしの朗読の才能(人をなぜか感動させてしまうという秘められた才能)を表現するため。つまり、この作品世界を成り立たせるために、この劇中劇ミュージカルは「始まった途端、舞台上だけでなく劇場の客席もあっけにとられるほどに圧巻でなくてはならない」シーンであり、そのミュージカル力に自信がなければ絶対に作れないシーンなのだ。その重責を見事に果たした白山さんはじめミュージカル俳優の皆さんの技術と、抗い難く観客を引きこむ素晴らしい楽曲に脱帽。
こういうのは小説や他の芸術形態ではできない。舞台ならではの演出。まったくこれだから観劇はやめられない。
 
そういうわけで、私にとっての天国の本屋の真骨頂は、ミュージカルの魅力の本質を外してないところ。劇中劇のミュージカル技術の高さにも、なぜその物語を挿入(劇中劇)するのかにも、必然性と良い意味での計算がある。「なんとなくいい話っぽいから入れてみました~」「そろそろ歌がないと寂しいから歌わせてみました~」ではなく、物語のテーマ(現世/天国、本当の自分/かりそめの自分、友情、別れなどなど)とリンクする、ミュージカルでなくてはならないものが配置されている。こういう隙の無い舞台が私は好きだ。
もちろん、冗長に思う箇所もないではない。冒頭のHBSのテーマは、いくらなんでも3回リフレインする必要はないだろう。主人公のモノローグやヒロインの怒りのシーンの曲も、フルで歌う(いわゆる2番まで歌う)ことに少し違和感を覚えた。それでも、全体の価値を損なうほどではない。それよりずっと、良いところの方が多い。
菅野こうめいさん、すごいなぁ。他の作品も観ていきたい。
 
ただ、2時間超を座りっぱなしはさすがに肉体的にも集中力的にも私は辛くて、70分あたりで一度休憩入れてほしいなぁとは思った。ちょうど、主人公の朗読の人気が出て「みんな彼に夢中」的な歌詞の曲で盛り上げて終わるところ。なんとなく「そろそろ1幕が終わるんだな」と拍手の準備をしてしまった笑
(この記事は東京千秋楽の日に書いているけれど、大阪も控えているから、休憩時間の件、改善されないかなぁ、まぁ無理だよなぁ、などと思っています)
 
2 河合郁人さんについて

河合くんは演技力が増していた。演技力というか、舞台上に居るときの「自然さ」のようなものが以前より上がっていたように感じた。「待ち」の演技とか、さりげなく良くなっているような気がしました。

歌唱の多さには驚いたけど、さすがの安定感と喉の強さ。ストレートなラブストーリーを演じることが恥ずかしいと言っていたけど好演でした。良くも悪くも「いやらしくならない」「生々しくない」のが彼の持ち味だと再認識。今回のような、幸福感のあるファンタジー、さわやかな若者の恋愛関係、ヒロインがアイドルの方であるような場合には、もってこいの人材かと(?)。

あと、変な言い方だけど、今作こそ名実ともに「河合郁人の本当の単独主演」だと感じて、それがファンとしてはとっても嬉しかった。正直、今まで「主演」と銘打たれたものを観に行ったとき、「河合くん頑張っていたし良かったけれど、………『主役』だったか………?」という違和感を持ったことは事実で。登場している時間や役どころなども、「別の誰か」を立てるために彼がいるわけじゃないのになぁと思うことも正直ありました。

でも今回は、出ている時間も、役どころも、演出も、河合くんの佇まいも、全てが「主役」でした。これは河合くんが演技や歌の実力を磨いてきた証でもあるし、演出の良さもあると思います。上手なミュージカル俳優の皆さんに囲まれて「みんな彼に夢中」とうたわれるシーン、「ありがとうございます…ありがとうございます…」と客席で目頭をおさえる私がおりました(保護者)。まぁあれは「役」のおいしさも多分にあるにせよ、そういうシーンがあることで「この作品ではこの人が主役ですよ」と際立たせる手法でもあるわけですよね。そういうことがきちんとされている。

まぁ当然といえば当然のことなわけですが、そういう「当たり前の作法」がなされる舞台に、主役として立っている河合くんをみることができた。それが、個人的にはとても嬉しかった。

カーテンコールのとき、ファンの気持ちに配慮してか前方列よりも後方列に目線をやること、三方礼をする座長としての横顔が凛としてその瞬間だけは孤高で馴れ合わないこと、柔軟であることと変わらないことの両方を感じながら、こういうところがこの人のファン冥利に尽きるよなぁと思いました。

 

よき時間でした。大阪公演でもたくさんの人を楽しませ感動させますように。

A.B.C-Zとふぉ〜ゆ〜について

舞台ファンで、なんでも節操なく観る。ジャニーズでは、A.B.C-Zとふぉ〜ゆ〜を推している。好きになったここ数年、互いの舞台作品を比較しながら観ることも多いのだけれど、共通点(バックダンサー歴長い実力派、シアターダンスも外部芝居もバラエティもできる芸達者)と同時に、両グループの個性や立ち位置はなかなかに対照的だと思った。ので記録しておく。

 

A.B.C-Zは、ジャニーズ舞台の様式美を守り伝統を引き継ぐ仕事のど真ん中にいるグループで、裏方や自虐もできるけど、圧倒的にキラキラした「究極のファンタジー」として振る舞う最後の一線は譲らない。それは「売れる」ための枷になっている面もあるけども、彼らの唯一無二の価値でもある。

私は個人的にA.B.C-Zのこういう面、つまり、ある世界で長年つくられてきた様式美の正統な継承者としての役回りを全うする生き様、に心惹かれる。 枷でもあり価値でもあるその枠組の中に閉じ込められるのではなく、時に想定された枠を飛び越えるようなパフォーマンスが見られることにも感動する。

で、こういう立ち位置にいるからこそできる舞台というのがあって、それがまさしく「ジャニーズ伝説」だろうし、個人的には「 応援屋」もそうだろうと思う。応援屋は、「アイドルという存在の役割」を熱く主張した作品だから。 綺麗事で何が悪い、理想や夢をみて何が悪い、という強くブレない(ある意味、重たい)主張。

基本的にABC座は、一見きれいごとであろうとも、目の前で繰り広げられるこの夢の世界は間違いなく現実で( 夢なんかじゃない、すべて現実さ)、キラキラした夢をみてもいいんだと力ずくで信じさせてくれる、そういうジャニーズ舞台の王道をやり続けているのだと思う。それを全うしているのがA.B.C-Z


一方、ふぉ〜ゆ〜は、ジャニーズの様式美と振る舞いを踏まえながらも、開拓者、改革者という立ち位置にいると思う。たとえば「SHOWBOY」のスタイリッシュな演出との親和性の高さ、放課後の厨房男子の小劇場らしい器用な間と勢いある演技スタイルには、ジャニーズの様式美を苦手とする層にも訴求する洗練とわかりやすさがある。
多分これは彼らが堂本光一さんの舞台に長年関わってきたことも影響してるのだろうけど、いわゆる一般の客にも「洗練されたエンターテイメント」と理解されやすいような研究と努力の跡がはっきりと見える。必要以上に客と馴れ合わない、演じる側の完成度を求める姿勢は、 アイドルの舞台づくりとしては革新的だ。

そういうバックグラウンドをもつせいか、ふぉ〜ゆ〜には、ジャニーズの様式美が叩き込まれていると同時に、アイドルとしての振る舞いや言動の面では少し斜に構えている。 心中の本当の所は分からないが、自らの置かれた状況を克服する! と力んでいる様子がない。軽やかに笑い飛ばす。重い悲壮感が漂わないのは、ジャニーズの枠やヒエラルキーからある程度自由な立ち位置で、「こうなったらおもしろい事やろ」と突き抜けているからだと思う。ジャニーズらしい努力と下準備は怠らず、毎回新しい挑戦を軽やかに楽しむ。彼らの身体的なスタイルの良さとも相まって、それがとてもお洒落な空気感を生む。


で、私はといえば、芝居が上手でどんなジャンルの舞台でも高い完成度をたたき出し、軽やかで少し斜に構えている所がスタイリッシュで、自虐も時に上品に時にシュールに笑い笑わせながら新境地を切り拓いていこうとするふぉ~ゆ~が好きで、同時に、伝統の継承者としてジャニーズの王道舞台をまっすぐに重厚に作り 続ける、その枷と価値を笑顔で背負って汗も涙も輝きにかえて進んでいこうとするA.B.C-Zが好きなんだ。
 
以上、狭い意味ではジャニオタでないいち舞台ファンが叫ぶ、A. B.C-Zとふぉ~ゆ~への愛でした。基礎を共にする対極って感じで、どっちもほんと推せる。

阿呆浪士(新国立劇場、2020年1月)感想

ネタバレあります。

 

1. 全体について―総合的にGOOD

面白かった。赤穂浪士血判状が阿呆に拾われて、 ドタバタのなりゆきで阿呆も浪士として出陣することに、 ってストーリーがまず興味をひくし、阿呆の周囲の人間模様、 赤穂側の虚実入り混じった人間模様が絡み合い、笑い、人情、義理と正直、 夢と現実の間にたゆたう浮世の無常が感じられる、 ほろ苦くも奥深い脚本。

私は舞台装置好きなんだけど、 この装置のデザインと仕掛けには大満足。 大量の紙吹雪を惜しみなく使うなぁと感心してたら、雪にも桜にも見えるそれがラスト床板がせり上がって雪崩を起こし、切腹した浪士の遺体を覆い隠す(=歴史の底に埋没する)という仕掛けには驚かされた。ビジュアル的にも暗喩的にも圧巻。

愛らしいメインキャストと脇を固めるベテラン陣の安定感。ミュージカルナンバーのような和曲も良曲。ただ歌詞が聞き取りにくいところがあるから、 歌詞の配布があれば、より楽しめそう。

全体的に、グイグイ笑わせる箇所と台詞聴かせる箇所の緩急がもう少しつくと 更にテンポ感が上がる気がするけれど、途中少しだれるのが惜しい。たぶん作風に対して、 箱が少し大きいのかな。台詞聴かせるところ、空間の緊密さが必要なんだけど、やや散漫に抜けていく。

とはいえ、脚本には落語の風情があって、浪曲師もいて( 浪曲師がほんとにいい!)、装置の仕掛けは派手な歌舞伎的要素も感じられて、 ほんと贅沢な観劇だった。

主演の戸塚さんは「阿呆の八」 を可愛らしく演じていて、 江戸っ子らしい口の悪さの中にも粋がっている愛嬌があり、 それがまた可愛らしい。2幕冒頭の歌はちょっと荷が重そう。 心理が作りにくい難しい役だけど健闘していた。 早口は滑舌が気になるところあるけれど本人が楽しんでるのが◎。

浪士役の福田悠太さん、 台詞回しやら武士の立ち居振る舞いやらシリアスとコメディとの緩急やら、とにかく何もかもがうまい。安心してみていられる。 そして大変にかっこよく哀愁ある役どころなのでおいしい。 福田さんファンは必見と思う。最後の台詞が素晴らしい。 脱帽して絶賛するほかない。正直、 阿呆浪士の福田悠太さんみて3倍くらい見直した( 今までも上手いなぁと思ってたけど)。この役は、「大義」と「正直」をテーマとする本作の要でもある。

 

2. ペンライトについて―新たな照明演出の可能性、ただし作品は選ぶ

公演開始前から賛否両論だったペンライトとうちわ持参の件。 行く前は、正直「コンセプトがよくわからんな…?」 という気分だったし、 荷物嵩張るのも嫌だから何も持っていかなかったけど、 実際みたらペンライトの光がとても綺麗で、「 客席ペンライトによる新たな照明演出の可能性」 という風に考えれば納得感あった。

場違いなシーンでペンライト点灯させてる客もいないし、 マナーどうこうの点は意外と全然気にならなかったなぁ。 私が普通の(?ジャニーズのコンサートに行ったことがない) 演劇ファンだったとしても嫌な気持ちにならなかったと思う。

浪曲師がうまく物語世界と客席との繋ぎになっていたり、シリアスな会話でも洒脱にずらしたりと少し抜け感のある作劇なので、そのあたりもちょうどいいのかもな。とにかく、作品を選ぶ試みであることは確か。

うちわ貸し出ししてくれてたので借りたけど、うちわはあってもなくても良かったかな。どっちかというと手拍子とか拍手したい感じ。ペンライトの光は綺麗で新鮮だから、そっちの貸し出しがあったらいいのになぁと思ったけど、単価高いし電池とか色々あるよねぇ…私の家にあるペンライト寄付したい…

 

以下はちょっと辛口です。

 

3. 女性登場人物の扱いについて

というわけで総じて楽しんだのだけれど、個人的にはどうしても脚本にモヤっとするところが。女性登場人物のキャラクターが「かかあ(女房)とババア」と「男の肩書きになびく美人」と「姫」と「遊女」なんだけど、総じて人物造形が平板で時に失礼なところもあって、どうしても100%乗れない…

いやもちろん分かってるんですよ、そもそも江戸時代と現代とでは「男女」や「夫婦」や「性愛」のあり方も全然違うし、落語において「かかあ(女房)」は大抵ひでぇ扱いなのでそれが「お約束」ってとこもある。当時の女性の立場を考えたら、マドンナと遊女で物語作るほかないってことも分かる。

でも、そういうこと頭でわかっていても、いざ演劇としてみせられた時に「あぁなんか、男からみた世界の話だな…」という感想を持ったことは否定できず。終わった後に何となくスッキリしない感覚を残したのは、女性登場人物の描かれ方とか関係性の落としどころが雑だからなのかなぁと。

たとえば物語終盤、八が現世の最後に話すのは妻でなく愛人であり、一応、「先に女房の所へ行ったが昼寝していたので話せなかった」とエクスキューズはあるものの、結局あきらめてマドンナのところに来て「かっこいいよ!」て言われてハッピー、みたいな雰囲気で天に召されていったけど、それでいいんかい?!とずっこけてしまい。

まぁ物語全体の構造をみれば、そういう都合のいい事も無常の浮世であり、どうしようもない人間の業があるからこそ、かわいいし憎めねえ人の世じゃねえか…ってことなんだろうけども…う~ん…どうしても乗れない…

多分、こういうところが気になったのは2幕の展開(苦めの展開に舵が切られていく)の中で、個々のキャラクターの心理変化がうまく表現されてないからもある気がする。特に、八の心理。台詞のうえではそれなりに葛藤や気持ちの変化があった模様。でも1幕とは変わった八だとするならば、死ぬ直前、色恋相手の長屋小町のもとだけではなく、長く所帯を共にしてきた妻の元にも現れた、というシーンを、少なくとも場面として作るべきではなかったか。かかぁ、最後までいじられ要員なのかよ…八もかかぁもそのキャラクターのままで物語終わっていいのかよ…という感じであった。

というのも、「大義」と「正直」どっちで生きるか、の対比で始まるこの物語、後半、その二項対立が実は混じり合っていく、という所こそが「肝」だと思っていて。

「正直」を体現してるのが八で、だからこそすけべ上等、長屋小町に惚れたら嘘でも振り向かせてなんぼ、古女房なんか抱きたくない、が「正直」な本音なわけで、1幕でそれこそ八の妻がひでえ扱いなのはそういう本音の関係性だから。結婚や伴侶=大義だとすると、そんなのしらねぇや、俺は正直に欲と色に生きらぁ、というのが1幕の八。

しかし物語は血判状の入れ替わりによって、大義と正直の位置付けや関係性が揺らいでいき、最後には「生きるってことは大義だけでも正直だけでもない」という展開へ転がっていく。まさにそれこそが、浮世の面白さ・奥深さなわけですよね。それなのに、八と最後の対面するのが長屋小町ひとりってのがよく分からない。いまさら女房にくさい言葉吐くなんて真っ平御免だ、それでもお前にゃ長い間助けられたぜ、くらい言える八になってないと、物語構造との整合がつかない。

逆に、「大義」を生きる代表は福田さん浪士なわけだけど、駆け落ちした遊女は最後ひどい感じで人間的に未熟な女でしかなく、ただひたすらに福田さん浪士が孤独に死んでいくシーンが不憫。まぁ不憫だから役としてはおいしいのだけど、かわいそうな悲劇もまた人生、というのは、ここまで展開してきた物語に対して底が浅すぎる。人間の業や弱さから中途半端に「正直」に走ったことが過ちだったのだとしても、最後なにか救いが欲しいと思ってしまった。

それから、駆け落ちする遊女の「本気で客を好きになることがあるからこそ辛い仕事を耐えられるのさ」的な台詞も、当の遊女本人に言わせてしまうのは、セックスワーカーをめぐる現在までの議論の文脈を考えると、さすがに「男の幻想を聞かされましても」感が否めず。「そういう遊女もいたと思いまーす!」というのは反論にならない。数ある現実の中からどこを切り取って舞台の世界の中に入れるか、逆にどこを切り取らないか、という作業には必ず作り手の恣意と作為が入る。敢えてその部分を切り出すからには、それなりの意図があるはずで。その意図が「男の幻想」以外に何かあるのか、私にはよくわからなかった。

この遊女、正直に本音を言ってそうで(上の台詞も「本音」として扱われてるのだけれど)、最後までみるとそうでもないのでは?って印象があり、キャラクターの位置付けが謎だったなぁ。「正直と嘘の線引き自体無意味」ということなのかもしれないけど、結果、遊女が逃げ出すために福田浪士が利用されたような形になっていて、この遊女像がどうしても魅力的には思えなかった。

あと、姫を幼い頃から世話をしてたというおじさん、美しく成長した姫の姿に恋したまではいいとして、「おしめを替えたあの頃の記憶がよみがえって、えもいわれぬ気持ちに」的な台詞とか、旅の途中で夜に布団に忍び込んだけど匕首で反撃されて、いやぁまいったまいった~、みたいなノリ…今やアウトでは…?私は完全に引いた…

というわけで、女性登場人物の描かれ方・扱い方に尊厳が感じられない所で疑問が残ってしまった。忠臣蔵ってひたすら男の世界の話だから(武士のロマンってそういうもんですし)仕方ないところもあるんだけれども、いま現在の感覚からするとやっぱり女性の描き方というか扱いが若干古いのではないかなと。

 

4. ごくごく個人的な、解釈違いのお話、織り込み済みならすごい

で、上記のような、脚本上の疑問と同時に、戸塚さんという人と今回の役柄とが、私の中で乖離していたのも、やや乗れなかったもう一つの理由。いわゆる「解釈違い」ってやつですね。

私はBACKBEATのスチュアート演じた戸塚さんが本当はまり役だったと思ってるし大好きだったんだけど(BACKBEAT観劇後のブログはこちら)、それは「一途すぎるほど一途な愛に生きる人」だったからなんですよね。戸塚さんにはそういう人であってほしい、っていう、私の幻想。

そういう幻想を抱いてしまってるが故に、今回の八はちょっと、受け入れ難かったのでした。少し前までキャットファイトさせられてた女房と愛人を両腕に抱く姿…無理です、ごめんなさい。もし戸塚さんのことを何も知らず、単なる演劇ファンという立場で観た時、この芝居や役者としての戸塚さんをどう思ったのだろう。正直いって分からない。それを想像するには、私は幻想としての戸塚さんを知りすぎてしまったし、幻想としての戸塚さんを好きになりすぎてしまった。

などと、考えたところで、あぁこれって今作のテーマ、夢と現実、虚構と事実、大義と正直、というテーマにつながっていってしまうんだなぁと気付く。もしもここまで織り込み済みの脚本と配役だったとしたならば、こりゃ一本取られたなぁと思う次第。でも私はやっぱり「大義」の方が好きなんだなぁ、だから福田さん浪士に感情移入したのかも。

 

と、後半は辛口なことも書きましたが、観劇後につらつら考えるのも含めて面白かったです。