野田秀樹「赤鬼」について――見えないものへの「精神の暴発」

「コロナ禍」のもと、劇場に行けない「新しい日常」が突然やってきて、今もその日常が続いている。

3月頃に劇場がその扉を閉め始めた頃、ほんの数か月もすればこの騒動は終わって元に戻るだろうと、私はたかをくくっていた。だが騒動は終わらず、「感染者」への差別が始まった。出演者に感染者が出たという舞台では、観客の女性が観劇回数までさらされ、「感染者」が一人でも出た学校は休校して消毒せねばならなくなった。マスクやシートごしでない対面の会話は「飛沫感染」の温床になるから回避すべしという規範が浸透した。

6月頃、私はふと悟った。あぁもう元になど戻らないのだなと。もちろん、「感染対策」なるものを徹底した形での観劇は徐々に可能になっていくだろう。リモート演劇やソーシャルディスタンス演劇も新しい表現形式として発展していくのかもしれない。それでも、「元の状態」には、戻らない。喪失を認めるのは辛い。「まだ元の状態に戻る」という希望にすがりたい。でも多分、元には戻らない。

演劇のせいでも観客のせいでもなく「ウイルスとの闘い」という戦争が始まったことで、2019年までの、私が好きだった演劇は、劇場という空間は、終わらされ、変わらされた。

「死ぬまでにあと何回、舞台がみられるかな」が口癖だった私。ある日突然、劇場が閉じる日が来ると、どうして想像すらしなかったのだろう?そんな日が来るのは自分が寿命をまっとうした後だなどと、どうして無邪気に信じていられたのだろう?

幸せだったのだ、私は。世界中の劇場で、数え切れないほどの舞台作品が自由に上演され、客席がそれを目撃している、そんな世界に生きていた私は。地球が回る限り、日本でも地球の裏側でも「幕があがる」日常に生きていた私は。

でもよくよく考えれば、人の命や生きることも同じかもしれない。愛する人とも愛する場所とも、いずれは別れが来る。生きている限り、その別れの瞬間に一秒ずつ近づいているというだけの話。あまりにも突然だったから、別れを受け入れられずにいるだけなのだ。

劇場にいる時間が好きだった。幕が上がり降りる上演の間だけに生まれ死んでいく舞台上の命。そんな儚くも一回限りの命のような芸術である演劇が、私は好きだった。観客席から舞台を見つめる時間が好きだった。暗い観客席に座る私は、つかのま現実の自分という存在を脱ぎ捨てて、匿名で無名の存在の一つとして、舞台上で生きる命の輝きと終わりに立ち会える。舞台上の命と観客席にいる無数の見知らぬ人々と同じ時間を共有して、客席が明るくなり共有した時間をそれぞれに持ち帰っていく、あの不思議と心強いような時間。劇場の外に出て現実の生活に歩みを進めるときの、どこかよるべないような感傷。

劇場という物理的な空間に観客を集めて、演者が発する言葉や動きが空気をふるわせて観客のもとに届き、観客の反応がまた空気をふるわせて演者に届くという、生の相互作用こそが醍醐味という演劇を、劇場の空間を、私は愛していた。それがないなら私にとっては「演劇」ではない。

と、失われた演劇の空間を思うといくらでも懐かしさと不在の悲しみを吐露できてしまう。もうやめよう。

さて。こんな中でも少しずつ上演が再開され、そのいくつかをみたので感想を書く。野田秀樹作演出による「赤鬼」はその一つだ。「失われた」とか言いながら結局みてるんじゃねーかと言われるかもしれないけど、劇場の緊張感を思えば以前と同じとは誰も言えないだろう。それでも、この観劇は私に少しだけ光をくれた。

  

野田舞台「赤鬼」の感想:

舞台と客席の間には飛沫防止のシート。それを取り囲むように四方に座席配置。各座席は隣との間隔をあけてあった。もぎりはチケットに決して触れず、自分でちぎって箱に入れる方式。入り口で手のアルコール消毒。マスク着用のお願い。

始まる前は飛沫防止シートが光ってみえづらいかと思ったが、始まってみればあまり気にならず。シートのせいか舞台上と少し距離があるような声の届き方は気になったが、とても面白かった。90分休憩なしがあっという間。

「異質なもの」への差別の物語。パニックに陥る村人がいまの現実を描いているかのよう。こういう演劇をみたかった!と思った。

パンフレットの野田秀樹の言葉も秀逸で,ここに今回の「赤鬼」公演のもつ最も本質的な意義が書かれている.残しておきたいので,以下に引用する。

 

(以下,引用.太字箇所は原文ママ

私はかつて芝居を始めた頃「新世代」と呼ばれていた。今は,コロナで「死ぬ世代」と呼ばれている。・・・・こういうブラックジョークでさえ、自粛が強制されそうな厄介な時節である。「精神」まで自粛する必要はないだろうに、我々の「精神」は、これまた厄介にできている。ひとたび,見えないものを怖がり出すと、見えないだけに、その「恐怖心」はなかなか拭い去れない。だから,ひとりでに「精神」は心の中で自粛し始める。そして,自粛したままなら良いのだが、その「見えないもの」に耐えきれず、時に「精神」は暴発する。向かう先は「他者」である。

この『赤鬼』は、まさにその「精神の暴発」を描いている。別の言葉で言えば「偏見」であり「差別」である。そして「差別」は、今の言葉で言うなら、まさにとの「距離」の問題でもある。というわけで、この『赤鬼』は運悪くイムリなものになってしまった。けれどもこの時節だからこそ,やる価値も見る価値もある作品に仕上がってしまった。そう信じて疑わない。

「表現」は、恐怖心とは、また別の、人間が誇るべき「精神の暴発」だからである。

野田秀樹

(以上,『赤鬼』公演パンフレットより引用)

 

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2020年7月『赤鬼』上演パンフレットより