「良い子はみんなご褒美がもらえる」考

みてきた。とても難解。役者は健闘していました。堤さんも橋本くんもきれい。きれいにまとまりすぎたかもしれない。

 「難しかったなぁ」で終わりたくない性質なので、ほぼまっさらな状態で観劇した私はこんな風に解釈した、というのを記録しておく。ネタバレあります。

 

まず、この作品におけるオーケストラは何のメタファーか。私はこれを「秩序ある社会」のメタファーだと受け取った。

(観劇前は「想像の自由」の象徴としてのオーケストラ(頭の中で鳴り止まない音楽)だと思って観始めたのだが、上演されたものをみて、オーケストラ(または音楽)を、単純に「自由の象徴」とは受け取れなかった)

橋本イワノフは「秩序ある社会」を極端で純粋な形で信奉していて、社会の中に生じる少しのズレも許せないがゆえに、かえって社会に適応できなかったために狂人扱いされている。(楽器奏者の小さなミスも許さないし、堤イワノフに「みんな楽器を演奏しているはずだ」などと詰め寄る)

堤イワノフは自分のことを「思想犯」だと定義しており、体制側から押し付けられた「狂人」の烙印には一貫して抵抗する。だから「狂人」である橋本イワノフを侮蔑しているし、彼の「妄想」であるところの「オーケストラ」も決して認めない。医師の「自分が狂人だと認めさえすれば(実際には思想を変えていなくても)家族と会える」という甘言にも拒否する姿勢を崩さない。「愛する息子」はいわば「目の前の幸せ」であり、それを取ることは思想への裏切りを意味する。

医師は、この作品の中で最も「適度に社会適応的な」人間である。彼に信奉する思想や理想はない。国家にも社会にも大した信頼は置いていないが、その中でしか生きられないことをわかっている。もし信奉に似たものがあるとしたら、自身の運命に直接の影響を与える「大佐」の意向くらいのものである。彼はこの社会で与えられた役割=精神科医の職業的義務を果たし、終わったらオーケストラの練習に行きたいと思っている。スムーズに治らない入院患者のような面倒ごとはまっぴらごめんである。だから堤イワノフに「薬はあなたが好きなものを選べばいい、飲まなくたっていい」とすら言う(これは『1984』において体制への確固たる信奉から思想犯を徹底的に「矯正」する秘密警察とは対照的だ)。医師がオーケストラの練習を自身の人生の最優先事項と考えていることは、橋本イワノフに(せっかくオーケストラを妄想だと認めかけたにもかかわらず)「俺のオーケストラはある!」などといい、橋本イワノフを再び妄想の世界に戻してしまうことからも明らかである。

堤イワノフも橋本イワノフも、方向性は違えど極端な形で信じる思想や理想があるがゆえに「狂人」または「犯罪者」という社会秩序を乱すものとして収容されている。これら「異分子」とみなされた人々に国家や社会がどのような仕打ちをとるか、「狂気」と「正気」の境界線など、社会的に構築されたもの、その時代の社会体制にとって都合の良いもの/悪いものが恣意的に決められてきたにすぎない、という告発自体は、演劇では頻繁に描かれるテーマだ。

そのような、言ってしまえばやや「古臭い」テーマを持つこの作品を面白くしているのが、後半で唐突にあらわれる「大佐」である。大佐は、ばかばかしいほどに仰々しい音楽とスポットライトのなか客席からあらわれる(おそらくここは本作中の最も笑えるシーンである)。精神病院の上記3者が、それぞれの信じる「最善の行い」を完遂しようとするのにうまくいかない、その葛藤や真剣さ――堤イワノフに至っては、愛する息子との平穏な生活も捨て、自身の命すら賭す――とはあまりに対照的な、ばかばかしさに満ちた大佐の登場シーン。そして大佐は、名前が同じであるというだけで患者二人の症状を誤認する(ように装う)ことによって「退院」を宣言し、患者と医師をこの混沌から解放する。このシーンは,独裁者の気まぐれで社会のルールがある日突然塗り替えられる独裁国家のようでもあるし、ソ連崩壊後の東西関係や東欧諸国の状況も彷彿とさせるし、あるいは戦争に負けた途端に「戦後民主主義」へ鞍替えしなければならなかった軍国少年のことをも想起させる。

何れにせよ、患者たちは自身の(または医師個人の)努力とは全く異なる次元で、「自由」「解決」が与えられる。これに最も絶望するのは、当然ながら堤イワノフである。「自由の獲得」は個人の努力や思想とはなんの関係もないという事実を、目の前に突き付けられたのだから。絶望の中、堤イワノフは「狂人」として侮蔑していた橋本イワノフの指揮棒を受け取る。このラストシーンの解釈は難しい。最もわかりやすい解釈は、狂気と正気の境界線などあいまいなもので、狂人だと思っていた橋本イワノフと自身(堤イワノフ)は実際には同じ穴のむじなであったことを理解したという「和解」。または、どんなに抗っても「社会」という構造とそれを動かす力(それは為政者かもしれないし世間の多数派かもしれない)の手のひらのうえでしか生きられないことを諦め受け入れた「諦念」。(だとすれば、堤イワノフの思想を「転向」させたのは、病院での治療ではなく大佐のめちゃくちゃな誤認だった、というわけだ)。指揮は「支配」の象徴であろうから、堤イワノフは「どうせならこの社会、支配してやろう」という欲望の方に目覚めたということなのだろうか?正直なところ、ラストシーンで堤イワノフがなぜ指揮棒を受け取るのか、よくわからなかった。

というのが、初見の私の解釈なのだが、他の人たちがどのようにこの作品をみたのか気になるところ。

上記のような構造を前提としたうえで、友人たち(出演者のファンではない)と話し合った感想が以下。

・とりあえず非常に難解。その理由の一つに、1970年代欧州のリアリティと現在の日本のリアリティとの間に乖離が大きく、この作品の前提となる文脈が共有できないことが挙げられる。国も言葉も違うので文脈が共有しにくいのは当然なので、より役柄をデフォルメしたり音楽・照明等の緩急をつけて、観る側のフックとなるような演出が欲しかった。

・それに関連して、上演台本を翻訳した時点で緩急の再現が難しくなっていることがうかがえる箇所がある。たとえば、前半の言葉遊びの部分、「フランス娼婦とフレンチホルン」は「French pornoとFrench horn」の洒落だろうという指摘があった。このあたりは直訳してしまうと駄洒落や韻が死んでしまう。おそらく前半の両イワノフの掛け合いにはそのような単なる言葉遊びで意味自体を深く考えなくてもいい箇所がたくさんあったのだろうけれども、駄洒落や韻が死ぬとまじめに意味を聞き取ろうとしてしまう。意味などないものを一生懸命きこうとするのだから、結果、難解な印象になる。

・また、両イワノフのキャラクターももっとデフォルメして、「これは確かに社会に放つと面倒が起きそうなやばい奴」感を出した方が分かりやすかったのではなかったか。堤さんも橋本くんもとても「感じのいい」「かっこいい」方々であるため、「こんな奴らの話、まじめに聴くのはバカらしい」という印象を与えることが難しい。前半の掛け合いで二人を客席(という安全な場所)から笑ってもらい、中盤で徐々に「狂人」と「思想犯」の境界を曖昧にして、最後の大佐のちゃぶ台返し、という流れならばより分かりやすかっただろう。調べたら、統合失調症のイワノフ役はイギリスではトビー・ジョーンズが演じたそうで、そりゃ確かにおもしろそうだなと思った。しかし何度も言うが、役者はみな健闘していた。日本の文脈とのすりあわせや言葉遊びの調整、役柄の咀嚼がうまくいけば、もっと良かったのだろうと思う。形としてはこぎれいにまとまっているのだが、役者自身が役柄の意味を分からないままに形にしているという印象があった(だからこそ健闘していると感じたのだが)。

・舞台上にオーケストラとコンテンポラリーダンスと芝居という3要素を同時に乗せるという試みは面白い。だが、良い化学反応が起きていたかというとその効果は不明瞭だったと言わざるをえない。バーバルな情報(台詞・芝居)とノンバーバルな情報(音楽・ダンス)がうまくかみ合っているのかどうか、私には最後までよくわからなかった。

・音楽の分かる友人は、オーケストラの演奏は「時々音が出てないなどがんばれという感じだが、奏者を集めるのが難しい舞台なのでそれは仕方がない」と言っていた。あと、「ミソシレファ」の音がたびたび入っているらしい。最後、堤イワノフが指揮棒を受け取る所でもミソシレファが鳴ったらしい。

・友人たちは「橋本くんの指揮はうまかった」「さすがダンスをする人だけあって肩甲骨の使い方が指揮者の動きだった」「コンテンポラリーダンスを一緒に踊る時も上手だった」と身体の使い方を褒めていた。

・総じて謎めいている。伏線らしきものは回収されないまま、ずっと謎めいたまま終わる。はっきり言って相当モヤモヤする。私は観劇中に寝ることはほとんどないが、この作品は残念ながら睡魔との戦いであり、そして負けた。日本の一般的な客に対し親切に作られた形跡はあまりないし、やたらとありがたがって観る必要もないと思う。しかし私は実験的な作品がさほど嫌いではない。終演後2時間くらい、観劇を趣味とする友人と、様々な視点から、ああでもないこうでもないと議論して面白かった。そういう楽しみ方をする作品であろうと思う。