本谷有希子作・演出「本当の旅」

本谷有希子作演出「本当の旅」原宿VACANT、観てきた。これは面白いわ…。終わった後ちょっと立ち上がれない程の衝撃があった。
時流を鋭く刺す、あまりにもエッジの効いた本谷テキストと、多彩な表現技術を売りとする複数の劇団から集められたキャスト陣との化学反応。スマホを使って劇中で撮った映像を使うという試みも、奇をてらったかと思いきや、ストーリーとの必然性があって唸らされた。
本谷有希子さん、最近では作家の仕事が印象深いけれど、演劇作ってた頃はもっと「ベタ」な演出をする人という記憶があったが、今回はその頃とはうってかわってコンテンポラリーな印象で新鮮。スイッチ総研やままごと、柿喰う客といった協力劇団の名前とみるとそれも納得。人物模写の巧みさ(「あぁこういう人いるよね~」という、悪意すら感じさせるほどの鋭い模写ぶり)、演技術としては「美しく」ない、あえて意味のない動きを演技者がするチェルフィッチュ的な身体の使い方も、それがストーリー内の「事件」「引っ掛かり」と連動しているのが効果的。
テーマとしては、コミュニケーションにSNSが必須となった現在の、「空気を読んだ」「ポジティブで優しい」「みんなでシェアして肯定しあう」的人間関係への違和感、ということになると思うのだけれど、そこに、現在のロスジェネと若者(?)が置かれている社会状況(雇用の不安定化や低賃金、グローバル化・多様化と「差別」)を、ふんわりと・さりげなく組み合わせる。同じく「ロスジェネ」である私にとっては大変によくわかる話だった。また、インスタに写真や動画を上げ続けることに自分のアイデンティティを託す2人の、一見「楽しそう」で「クリエイティブっぽい」表面とは裏腹の、ふとしたときの、かつてであれば深刻に受け止め・描かれていたような悲愴感の浮かび上がらせ方も切なくなるほどに見事だった。「差別とか大っ嫌い」というその同じ口で,直後に外国人差別LGBTへの偏見にもとづく発言が出てくるのも、実にエッジが効いている。
本谷さんとは同世代なので、2000年代にネット空間やSNSが広く普及しはじめて私達の日常生活を彩り始めた頃の楽しさと期待(自分たちの生活や人生をこんなにも楽しく編集できることへの驚きと中毒感)も大変に共感できるし、そこから約20年弱が経ち、現在のSNSを巡る人々のから騒ぎの薄気味悪さと滑稽さへの違和感も、とても共感できたるものだった。現実じゃなくスマホタブレット画面の中が、よりリアルに思える感覚の描き方の巧みさ。旅の途中、ホテルでそれぞれに黙ってスマホで写真を編集・アップロードし続ける場面で、ふと窓ガラスにうつった生身の自分たちが「中年」であることに気づく瞬間とのギャップ。その衝撃と、そこから逃げ出したいような感覚(実際、主人公は逃げるのだった)。
物語は最後、「のっぴきならない生身の現実」に対峙させられるけれども、最後まで、対峙できない3人を描く。「生身の現実」が進むタクシー車中で、「空気を悪くする」ことを何より嫌う彼らは深刻な話を口にすることができない。主人公が同じ車中にいる二人に「LINEするわ」というところが本当にうまいと思った。LINEの会話特有の雰囲気、細切れの相槌、スタンプで深刻さがひとごとにようになるところなども、深く印象に残った。私はLINEをあまり使わないけれども、メールやブログ、SNSに夢中になったあのころに、そのコミュニケーション・コードに馴染むことが「成長」のようにに感じられたことを思い出したりもした。
3人の登場人物を多数の役者が入れ替わりながら演じるのも、まるでSNSの「いいね」をシェアしあう友だち、インスタに上がる写真が自分の生活や人生の一部のように錯覚する「つながり」を表現しているのだとわかって、なるほどなと思った。仮想空間の心地よいつながりと生身の身体が置かれているのっぴきならない現実、の対比。これはテキストだけではできない演劇的かつ効果的な演出で秀逸だと思った。
彼らの一見おだやかでポジティブな振る舞いの底にある切実な感情に強く共鳴させられてしまい、終幕後、席から立ちあがれないくらいの衝撃があった。これは脚本だけじゃなく、情緒に強く訴えかけてくるままごと的な演出の効果だと思う。若い頃、あんなにも夢中になった技術をめぐって、今どうしてこうなってしまったんだろうという思い、寂しさ。
ただ、文学としては個人的に強く刺さるものがあって、さすがの本谷節だなと思ったのだが、最後、少しでも救いのようなものがあれば、少しでもあれば、より良かったと思わされた。 一体こんなふうになった世界の中で、私たちは何に向かって歩いていけばいいんだろう?主人公が自分の田んぼで稲を作っている(クリエーション!している)という設定で、この人だけは生身の現実に対峙できそうな立ち位置にいたと思うのだが、最後その人をヒーローにはしなかった。確かにこの人をヒーローにするのは違うだろう。でも突破口があるとしたら、そこしかないような気もした。
正直、1ドリンク制のイベントスペースっていう会場(原宿「VACANT」)設定が、「ウワ~~苦手なやつだ〜~」って感じだったし、本谷有希子氏の久々演出作品ということもあってか客席が関係者だらけで開演前も終演後も演劇関係者の顔見知りどうしで盛り上がってる空気も本当に苦手だったんだけど(本谷さん関連てこういう現場の雰囲気になったのか?)、開演してしまえば、そんな自分の感情を忘れ引き込まれてしまった。
終演後、関係者どうしで盛り上がる会場ロビーを逃げるように後にして原宿駅へ歩き出すと、通りにはスマホでタピオカドリンクや街や自分たち自身を撮影しながら歩く人々があふれかえっていた。そこで私はやっと、この劇がこの会場で上演された意味が分かった。これも計算されていたのだな。
 

ラッパ屋「2.8次元」―演劇酔狂の、演劇酔狂による、演劇酔狂のための作品

演劇好きの中でも観巧者たちからの評判が高い「2.8次元」。観てきた。

笑ったー!ミュージカル、2.5次元、新劇、それぞれの「あるあるネタ」や「いかにもネタ」で笑わせつつ、しかし貶めず、異分子どうしの心情や行動原理をきちんと描き、少しの苦味もむしろ爽やかな余韻となってラストに着地する。丁寧な作劇が大好きだった。単なる異文化disではなく、「演劇」に関わる者、その新しい動きとして共通点や相互作用の妙を見出していくような前向きな戯曲が気持ちいい。

演劇という酔狂に取り憑かれた観客と役者の一体感も楽しくて、演劇業界の用語や動向が分かる者には抱腹絶倒のおもしろさ。「平田オ●ザかよ!」で爆笑する客席の安心感がすごい(笑)。

ミュージカル界からきた女優(「Emmy」という名作ミュージカルで主演をつとめたという設定。笑)の、くっきりとデフォルメされたキャラクターが今作の面白さの軸をなしていたのはもちろん、その歌唱力で「ミュージカル」の空気感をしっかりと立ち上げていたのが素晴らしかった。

クライマックスの劇中劇(2.5次元風)の通し稽古が行われる中、突然の父子劇へと変わっていく中で「雑草座」座長の芝居によって一瞬で涙を誘う空間が立ち上がるのもさすがだった。この座長、冒頭から「めんどくさい演劇論」を語ってしまう、古き良き新劇の人という感じなのだが、「心の機微を描く」芝居をやらせたらやっぱり実力を見せつけられてしまう、という展開(いうなれば新劇俳優の面目躍如)がまた面白い。

ラストで、偶然にも素人から役者に起用されたおじさんに「(劇団員から今後もつづけたら?と言われて)いや、たまにやるから面白いんだと思う。これを人生にはできない」(うろ覚え)と言わせるのが良かったなぁ。それに続く、劇団員の「どこに違いがあるのかしら、人生にしてしまう者とそうでない者と…」(うろ覚え)って台詞も良かった。

劇団を長く率いてきた座長の「(稽古場のビルの周りの再開発工事?を指して)もうあのビルは2回も変わったよ。ここだけが変わらない」(うろ覚え)というのも当然ながら演劇界を取り巻く状況を暗示しているのだろう。戦後日本の現代演劇界の変化に思いを馳せた。この座長の台詞には深く印象に残るものが多かった。

結成35周年だという劇団の、酸いも甘いも噛み分けた懐の深さが戯曲にも演出にも表れていて、今後も見続けたいと思わされる作品でした。続けてくれてありがとうございます(誰目線か謎ですが)。

KERA・MAP「キネマと恋人」―虚構と虚構に支えられながら生きる者たちへの賛歌

観てきた。2016年初演の際には観劇のご縁がなく、今回も半ばあきらめかけていたところにチケットを入手することができて向かった北九州芸術劇場。観劇できたことが恩寵に思えるほどに素晴らしかった。

幕引き後、心の底から夢中で拍手した。昔、生まれて初めて演劇というものを観て「こんなに面白いものがこの世の中にあったのか!」と思った衝撃にも似た、興奮。沢山笑って少し泣いて、甘く美しく少し苦い、大人のためのおとぎ話。

 

3時間超があっという間―ケラ演劇の集大成的作品

全体を通して、すさまじい完成度。ケラさんのオリジナル作品て、おそらくご本人の親切なお人柄のゆえか、ちょっと盛り込みすぎというか、もう少し削れるなぁと思ってしまうこともあったのだけど、今回は盛り込んでも飽きさせずに魅せる手腕に脱帽した。

池田成志さんのこのツイートに共感したので引用しておく。

 

 

KERA・MAP×上田大樹(映像)×小野寺修二(ダンス)=奇跡の化学反応

ケラさんは自身の演劇作品の中に音楽や映像や絵やとにかくいろんなアートを良い意味で節操なく、それでいて都会的なセンスで融合させ、独自の演劇作品を作ってきた人である。

NYLON100℃KERA・MAPの代名詞ともいえる、プロローグ後のオープニングパート、役者の動きと舞台上の装置の動きに連動させたプロジェクションマッピングは、いつもながらにポップでオシャレで緻密で、毎回「これを観るために来た!」という気分にさせてくれる。(今回は久々のケラ作品観劇だったこともあって、嬉しさのあまり少し涙ぐんでしまった)

可動式のパネルを役者が動かしながらプロジェクションマッピングを投影するという手法は今でこそ珍しいものではなくなったし、かなり大がかりなものも増えてきたけれど、私はケラさんと上田さんの作る、「技術や機械に人間が使われてる」感のない、役者・スタッフの理解力や身体能力あってこそのプロジェクションマッピングが好きだ。物語のテーマとしっかり連動しているところも演劇の文学性のような部分を捨てないでいてくれているようで好きだ。

今回はこれに加えて、小野寺修二さんのコンテンポラリーダンスが随所に盛り込まれ、後述する「裏方のダンス」を実現していたのが印象的だった。作品によってはコンテンポラリーダンスが「これ見よがし」な感じになっていたり、悪くいえば「アートっぽさ」を付け加えるだけのもの(=別にそれがなくても成立する)になりがちだったりする。だが、今作では、装置転換や役者の心理描写に溶け込ませることで、むしろダンスがなければ成立しないような化学反応が起きていたように思った。

もちろんこれらの才能と、作りたいものを理解して動くキャストとスタッフの手腕とが全部組み合わさって、全体は一続きのダンスのような、音楽のような、そんな魔法のような作品を体験した。

「裏方のダンス」としての今作

というようなことを考えながら帰路、電車の中で開いた公演プログラムのいとうせいこうさんのコラム「裏方のダンス」ですべて適切な語彙と表現力によって言い尽くされていた。もはや私が付け加えることは何もない。ツイッターだったら全RTして「ほんとそれ!!>RTs」で終わるやつ。いとうせいこうさんはすごい。

いとうせいこうさんの「裏方のダンス」(公演プログラム)、本当に素晴らしいからみんな買って読んでほしいけど、一部だけ引用すると、

この「裏方のダンス」という言葉には幾つかの意味があって、そのまま「道具を出し入れする裏方」がまるで踊るようだと取ってもいいし、「芝居のシステムそのものをダンスのように見せる」と解釈してもらってもいい

ジャンルそれ自体の枷のようなものをむしろロマンティックに演出(...)つまりロマンティックであるために、テクニカルであること。あるいはテクニカルであるために、ロマンティックであること。そこに『キネマと恋人』の美しさの根本があるのだ

という。ほんにその通り。うなずきすぎて首がもげそう。

戯曲や演出上のしかけ色々

他にも数え切れないほどの面白い仕掛けがあって、映像(映画スクリーン)を舞台上に出す今作だけど、映画観客とスクリーン内の映画俳優との「観る-観られる」の関係性が逆転するところとか、「何も起こらない画面」をみつづけて「傑作だわ!」って喝采するただ一人の観客=映画館売り子の存在とか(これを演じる村岡希美さんが脚本家も一人複数役で演じているのもうならされる)、劇を二重三重に入れ子構造的にしていく展開が本当に巧みで、でも単なる技巧ではなく物語や役者の芝居が楽しめてしまうので、こむずかしいこと考えずに楽しんでしまうという理想的な状態。

「全部わすれて楽しかった」にさせてくれる演劇は貴重だ。

あと、最初の映画スクリーンが物理的に一瞬で消える演出、スクリーンの布を客席上方に引いて消えさせるというのが面白かった。ちょっとカラカラ音が気になったけど。

緒川たまきさん、妻夫木聡さん、ともさかりえさん

キャスト全員の隙の無さ。技術の高さに舌を巻く。

緒川たまき様(もう「様」と呼ばせていただく)の魅力、美女なのだけれど少し変わっている魅力が余すことなく表現されている役どころ。そしてともさかりえさんとの姉妹シーンは可愛らしくて切なくて、女優を使うのがうまいと言われるケラ作品の真骨頂ここにありとでもいうべきか。はたからみるとちょっと不憫な姉であり妻であるハルコ(緒川たまき様)が後半で優しく哀しそうに言う「愛って、時計を買い与えてそれで終わりってものじゃないと思う」(うろ覚え)みたいな台詞。全編を通じて、そのような愛を妹に与えるハルコが初めて口にする「愛」論が切ない。こういう台詞が攻撃的に聞こえない、むしろ悲しく切なく響くケラ戯曲と緒川たまき様の仕事ぶりが好きだ。

1人2役を演じた妻夫木聡さん。演じ分け素晴らしかったし、カーテンコール二度目では、もう一つの役として出てくるのが本当に粋だった。

 

虚構を愛する者、虚構に支えられて生きる者すべてへの応援歌のような、苦いけれども人生賛歌のような作品だった。幸せな観劇でした。

 

 

BACKBEAT感想―「熱狂」の波が寄せる、海辺での別れと永遠の喪失について

BACKBEATみてきた。最高だった。

観劇前の数週間、仕事のことで頭いっぱいで寝ても覚めても仕事のことが頭を離れなくて困ったもんだなと思っていたのだけれど、BACKBEATの1幕冒頭で出演者が軽くダンスするシーンであまりのかっこよさ(男くささと色気)に頭パーンなって仕事のこと全部忘れられたし相当リフレッシュしたから、忙しくて疲れた大人の女のひとは全員BACKBEATみたらいいと思う。

女性ファンへのサービスというかウケを相当狙って作ってるところが潔くて良かった。出演者のビジュアルや設定(バンド、革ジャン、ソフトリーゼント、煙草、マッシュヘア、スーツ)からして、これ嫌いな女の人そうはいない。客席はほぼ女性ファンだというのは企画の時点で分かっていただろうから、徹底してそこにフォーカスする潔さ。

でも単に観客を「はぁ~気持ちよかった~♡かっこよかった~♡」で終わらせないところに演劇人魂を感じて、私は好きだった。1幕で、ファンの女に道で突然叫ばれたエピソードを語るシーンで、メンバーに「あれはオルガスムスの一種らしいぜ」みたいな台詞を言わせるのしびれたなー。別の舞台ならともかくジャニーズファンだらけの客席を前にして、出演者がこの台詞を吐くロックな構図にしびれた。

ちなみに、ビートルズについては、いわゆる「赤盤」「青盤」をもってたってくらいの人です。先日、映画「EIGHT DAYS A WEEK」をみてとても面白かった。

 

以下、感想。ネタバレあります。

1 全体について

1)露悪と熱狂の1幕

新しい音楽で上を目指す人たちの色々なレベルの欲望(金や性、表現への衝動)がないまぜになった蠢きを、売れる商品へ変えていく「ビジネス」の型に彼ら自身が歩み出していくまでの物語。「原石」であり、ありのままかのように演出されながらも「作り上げられた虚像」であることから逃れられない存在としてのアイドル(ポップスター)に「熱狂」するファンに、その残酷さを突き付ける物語でもある。

1幕では、創世記ビートルズが「いかに女を熱狂させるだけの才能を持った原石だったか」がこれでもかとばかりに描かれるんだけど、出演者のキャラクターも台詞も音楽もダンスも含め、その説得力がすごい。心からキャーキャー言いたくなる。このバンドに熱狂したくなる。

しかもそこに、彼らとファンの性的欲望がやや露悪的なまでに描かれるのも(裏でフェ*チオされるシーンとか、ジョージが童貞喪失した後のくだりとか)、アイドルの出る舞台として相当に攻めている。単に女と絡むとか半裸になるという目に見えるインパクトのみならず、「客とそれをしている」という設定も込みで。ドラッグも煙草も酒もセックスも汚物も全部あるのだが、役者がかっこよくてきれいだとなんかものすごく見てて気持ちいいものになってしまう。こわい。イケメンこわい。

*1:むしろ商品イメージを損なわない範囲において、「悲劇」は熱狂にガソリンを注ぐ付加価値であり消費の対象ですらある。ポップスターとはそのような存在だ。ジョンはこの舞台をみて、どのように思うだろうか。笑うかもしれない。すべてのできごとを織り込み済みで道を選んだのだと思いたい。

*2:事前にラブシーンがあることを知らされていなかったこともあってか、戸塚さんのファンの方の中には辛くて見ていられないという人も少なくないらしい。スチュアート役、戸塚さんがとても戸塚さんらしくしてる役だからこそラブシーンの生々しさが凄まじいのだろうな。 特に、運命の人に出会ってからのラブシーンがほんと愛に溢れていてこれは戸塚さんにしか出せない味だなと思いながら観ていた。全身全霊で愛するスチュアートこと戸塚さん。A.B.C-Zのメンバーで濃いめのラブシーンがあったといえばコインロッカーベイビーズだが、河合キクの場合は対照的に、どことなく恐々と遠慮がちに相手に触れる感じがあり、触れ合いながらも醒めた一枚の膜があるような脆さがあり、だからこそ耽美で虚構的なラブシーンだったのかなぁと思い返す。 役柄と役者によってラブシーンの印象がこんなにも違うのが面白い。

*3:2回目の観劇でつくづく思ったけれど、戸塚スチュアートが病のためにアストリッドを殴ってしまうシーンが特に良い。嫉妬するシーンも殴るシーンも本当に怖いし、そしてそれをしてしまった自分に驚き傷ついている芝居が真に迫っていて、どれほど辛いだろうことが伝わってきて私は泣いた。アストリッドの、殴られた時の心の痛みも。

「良い子はみんなご褒美がもらえる」考

みてきた。とても難解。役者は健闘していました。堤さんも橋本くんもきれい。きれいにまとまりすぎたかもしれない。

 「難しかったなぁ」で終わりたくない性質なので、ほぼまっさらな状態で観劇した私はこんな風に解釈した、というのを記録しておく。ネタバレあります。

 

まず、この作品におけるオーケストラは何のメタファーか。私はこれを「秩序ある社会」のメタファーだと受け取った。

(観劇前は「想像の自由」の象徴としてのオーケストラ(頭の中で鳴り止まない音楽)だと思って観始めたのだが、上演されたものをみて、オーケストラ(または音楽)を、単純に「自由の象徴」とは受け取れなかった)

橋本イワノフは「秩序ある社会」を極端で純粋な形で信奉していて、社会の中に生じる少しのズレも許せないがゆえに、かえって社会に適応できなかったために狂人扱いされている。(楽器奏者の小さなミスも許さないし、堤イワノフに「みんな楽器を演奏しているはずだ」などと詰め寄る)

堤イワノフは自分のことを「思想犯」だと定義しており、体制側から押し付けられた「狂人」の烙印には一貫して抵抗する。だから「狂人」である橋本イワノフを侮蔑しているし、彼の「妄想」であるところの「オーケストラ」も決して認めない。医師の「自分が狂人だと認めさえすれば(実際には思想を変えていなくても)家族と会える」という甘言にも拒否する姿勢を崩さない。「愛する息子」はいわば「目の前の幸せ」であり、それを取ることは思想への裏切りを意味する。

医師は、この作品の中で最も「適度に社会適応的な」人間である。彼に信奉する思想や理想はない。国家にも社会にも大した信頼は置いていないが、その中でしか生きられないことをわかっている。もし信奉に似たものがあるとしたら、自身の運命に直接の影響を与える「大佐」の意向くらいのものである。彼はこの社会で与えられた役割=精神科医の職業的義務を果たし、終わったらオーケストラの練習に行きたいと思っている。スムーズに治らない入院患者のような面倒ごとはまっぴらごめんである。だから堤イワノフに「薬はあなたが好きなものを選べばいい、飲まなくたっていい」とすら言う(これは『1984』において体制への確固たる信奉から思想犯を徹底的に「矯正」する秘密警察とは対照的だ)。医師がオーケストラの練習を自身の人生の最優先事項と考えていることは、橋本イワノフに(せっかくオーケストラを妄想だと認めかけたにもかかわらず)「俺のオーケストラはある!」などといい、橋本イワノフを再び妄想の世界に戻してしまうことからも明らかである。

堤イワノフも橋本イワノフも、方向性は違えど極端な形で信じる思想や理想があるがゆえに「狂人」または「犯罪者」という社会秩序を乱すものとして収容されている。これら「異分子」とみなされた人々に国家や社会がどのような仕打ちをとるか、「狂気」と「正気」の境界線など、社会的に構築されたもの、その時代の社会体制にとって都合の良いもの/悪いものが恣意的に決められてきたにすぎない、という告発自体は、演劇では頻繁に描かれるテーマだ。

そのような、言ってしまえばやや「古臭い」テーマを持つこの作品を面白くしているのが、後半で唐突にあらわれる「大佐」である。大佐は、ばかばかしいほどに仰々しい音楽とスポットライトのなか客席からあらわれる(おそらくここは本作中の最も笑えるシーンである)。精神病院の上記3者が、それぞれの信じる「最善の行い」を完遂しようとするのにうまくいかない、その葛藤や真剣さ――堤イワノフに至っては、愛する息子との平穏な生活も捨て、自身の命すら賭す――とはあまりに対照的な、ばかばかしさに満ちた大佐の登場シーン。そして大佐は、名前が同じであるというだけで患者二人の症状を誤認する(ように装う)ことによって「退院」を宣言し、患者と医師をこの混沌から解放する。このシーンは,独裁者の気まぐれで社会のルールがある日突然塗り替えられる独裁国家のようでもあるし、ソ連崩壊後の東西関係や東欧諸国の状況も彷彿とさせるし、あるいは戦争に負けた途端に「戦後民主主義」へ鞍替えしなければならなかった軍国少年のことをも想起させる。

何れにせよ、患者たちは自身の(または医師個人の)努力とは全く異なる次元で、「自由」「解決」が与えられる。これに最も絶望するのは、当然ながら堤イワノフである。「自由の獲得」は個人の努力や思想とはなんの関係もないという事実を、目の前に突き付けられたのだから。絶望の中、堤イワノフは「狂人」として侮蔑していた橋本イワノフの指揮棒を受け取る。このラストシーンの解釈は難しい。最もわかりやすい解釈は、狂気と正気の境界線などあいまいなもので、狂人だと思っていた橋本イワノフと自身(堤イワノフ)は実際には同じ穴のむじなであったことを理解したという「和解」。または、どんなに抗っても「社会」という構造とそれを動かす力(それは為政者かもしれないし世間の多数派かもしれない)の手のひらのうえでしか生きられないことを諦め受け入れた「諦念」。(だとすれば、堤イワノフの思想を「転向」させたのは、病院での治療ではなく大佐のめちゃくちゃな誤認だった、というわけだ)。指揮は「支配」の象徴であろうから、堤イワノフは「どうせならこの社会、支配してやろう」という欲望の方に目覚めたということなのだろうか?正直なところ、ラストシーンで堤イワノフがなぜ指揮棒を受け取るのか、よくわからなかった。

というのが、初見の私の解釈なのだが、他の人たちがどのようにこの作品をみたのか気になるところ。

上記のような構造を前提としたうえで、友人たち(出演者のファンではない)と話し合った感想が以下。

・とりあえず非常に難解。その理由の一つに、1970年代欧州のリアリティと現在の日本のリアリティとの間に乖離が大きく、この作品の前提となる文脈が共有できないことが挙げられる。国も言葉も違うので文脈が共有しにくいのは当然なので、より役柄をデフォルメしたり音楽・照明等の緩急をつけて、観る側のフックとなるような演出が欲しかった。

・それに関連して、上演台本を翻訳した時点で緩急の再現が難しくなっていることがうかがえる箇所がある。たとえば、前半の言葉遊びの部分、「フランス娼婦とフレンチホルン」は「French pornoとFrench horn」の洒落だろうという指摘があった。このあたりは直訳してしまうと駄洒落や韻が死んでしまう。おそらく前半の両イワノフの掛け合いにはそのような単なる言葉遊びで意味自体を深く考えなくてもいい箇所がたくさんあったのだろうけれども、駄洒落や韻が死ぬとまじめに意味を聞き取ろうとしてしまう。意味などないものを一生懸命きこうとするのだから、結果、難解な印象になる。

・また、両イワノフのキャラクターももっとデフォルメして、「これは確かに社会に放つと面倒が起きそうなやばい奴」感を出した方が分かりやすかったのではなかったか。堤さんも橋本くんもとても「感じのいい」「かっこいい」方々であるため、「こんな奴らの話、まじめに聴くのはバカらしい」という印象を与えることが難しい。前半の掛け合いで二人を客席(という安全な場所)から笑ってもらい、中盤で徐々に「狂人」と「思想犯」の境界を曖昧にして、最後の大佐のちゃぶ台返し、という流れならばより分かりやすかっただろう。調べたら、統合失調症のイワノフ役はイギリスではトビー・ジョーンズが演じたそうで、そりゃ確かにおもしろそうだなと思った。しかし何度も言うが、役者はみな健闘していた。日本の文脈とのすりあわせや言葉遊びの調整、役柄の咀嚼がうまくいけば、もっと良かったのだろうと思う。形としてはこぎれいにまとまっているのだが、役者自身が役柄の意味を分からないままに形にしているという印象があった(だからこそ健闘していると感じたのだが)。

・舞台上にオーケストラとコンテンポラリーダンスと芝居という3要素を同時に乗せるという試みは面白い。だが、良い化学反応が起きていたかというとその効果は不明瞭だったと言わざるをえない。バーバルな情報(台詞・芝居)とノンバーバルな情報(音楽・ダンス)がうまくかみ合っているのかどうか、私には最後までよくわからなかった。

・音楽の分かる友人は、オーケストラの演奏は「時々音が出てないなどがんばれという感じだが、奏者を集めるのが難しい舞台なのでそれは仕方がない」と言っていた。あと、「ミソシレファ」の音がたびたび入っているらしい。最後、堤イワノフが指揮棒を受け取る所でもミソシレファが鳴ったらしい。

・友人たちは「橋本くんの指揮はうまかった」「さすがダンスをする人だけあって肩甲骨の使い方が指揮者の動きだった」「コンテンポラリーダンスを一緒に踊る時も上手だった」と身体の使い方を褒めていた。

・総じて謎めいている。伏線らしきものは回収されないまま、ずっと謎めいたまま終わる。はっきり言って相当モヤモヤする。私は観劇中に寝ることはほとんどないが、この作品は残念ながら睡魔との戦いであり、そして負けた。日本の一般的な客に対し親切に作られた形跡はあまりないし、やたらとありがたがって観る必要もないと思う。しかし私は実験的な作品がさほど嫌いではない。終演後2時間くらい、観劇を趣味とする友人と、様々な視点から、ああでもないこうでもないと議論して面白かった。そういう楽しみ方をする作品であろうと思う。

「トリッパー遊園地」感想―いち演劇ファンの視点から

「トリッパー遊園地」をみてきた。正直いうと、演劇としてあんまり期待はしてなかったんです(ごめんなさい)。でも、思いのほか良作でびっくりしたんで、どこが良かったか書いておきたい。(ネタバレはしてないつもり)

 

1 脚本・演出の良さについて

みる前は、大衆演劇っぽい良くも悪くも大味な感じなのかな~なんて先入観を勝手に抱いていたのだけど、脚本演出が意外と構築的で見ごたえがあった。

押し付けがましくなりそうなところでヒョイと引く・外す、抑制と品の良さが感じられる演出とでもいうのか。

1)台詞や展開の「抑制」加減に、時代考証的な何かが感じられる

特に当時の男女の愛情表現。出征により想い人(両想い)への別れと同時に愛の告白の言葉を言う必要性が生じるのだが、ここで何を台詞として選ぶか、どんなふうに言わせるか、脚本家と演出家の才能が問われるところ。

現代のようにストレートに「好き」だの「愛してる」だの言ってみたりキスしたりとかだったら、リアリティなさすぎで興ざめである。でも本作はそうではない。「当時の人ならきっとこういう感じなんだろうなぁ」と思わせるような抑制のきいた台詞と態度で、それでもちゃんと互いを好きあっていることが伝わるような作り(演じ手の辰巳雄大さんと惣田紗莉渚さんの演技力にもうならされました)。

そして後半一番の見どころである出征シーンで見送る女性の言う台詞が絶妙で、「そうきたか!うまいなー!!」と、心底脱帽した。この台詞は、前半で一度、当時の人々の複雑な心情を乗せるワードとして効果的に使われている。伏線萌えとしては、そのへんの周到さにしびれました。

2)暗転少なめテンポ良し+わかりやすさ良し

無駄な暗転しないのはプロなら当然そうあるべきなのでわざわざ褒めるのもどうかと思うが、たま~~~にあるんですよ…素人が演出したのかな?ってレベルの暗転多用舞台が…。今回、休憩35分を含んでトータル3時間だけど、体感はあっという間。もちろん初見だからというのもありますが、不要な暗転のないテンポの良さは本作の売りかと。

台詞については、最近、岸田戯曲賞の選評などを読んだりしていたもんだから、本作の冒頭で「この二人のやりとり、説明的だな~」と感じたりしてしまったのだが(何様なのか)、それも一瞬のこと。全体的に、登場人物の立場や関係性を無理なく理解できて、すんなり物語の世界に入り込める脚本。これはそんなに簡単なことではない。ほんにありがたいことである。

3)入れ子構造、狂言回しとしての「活動弁士

登場人物のひとりが元活動弁士だったという設定で、狂言回しのような役回りがあるのだが、これが進行に変化をつけるスパイスになっているのが面白い。加えて、狂言回しがラブシーンを実況する形にすることで、ラブシーンにつきまとう「ベタさ」を一歩引いて見る視点が加わって、抑制された(湿度が高すぎない)シーンになったのも好みでした。ラブシーンに抑制をきかせることで、戦時中の男女関係の距離感を観客に想像させるという効果もある。この活動弁士を配置することで入れ子構造みたいになるのが面白いと思いました。

4)抑制が効いているから、要所でちゃんと感動できる

ここまで書いてきて、物語上の温度と湿度をうまい具合に抑制した、ややドライでとぼけた味わいがこの演出家(脚本家)の持ち味なのかなぁなどと感じたのですが、いずれにしても、その抑制されたシーンの丁寧な積み重ねによってクライマックスの感動が強く伝わる効果を生み出している。他の作品も観てみたい。

5)「感動コンテンツとしての戦争モノ」を超えた普遍的なメッセージ

実は私、戦争モノで安易に涙することを自分に禁じてるんですよ。当時の状況とか人々の生活や想いを本当の意味では理解も実感もできてない、平和な現代に生きてる自分が、軽々しく「共感」して「悲劇」を「消費」して「感動」する、「泣けた~」とか言いながら劇場あとにしたら忘れちゃう、戦争って、現代人が「泣けた~」「感動した~」ってスッキリするための便利で都合のいいコンテンツじゃねえだろ、と。同じ理由で難病モノもそう。戦争モノ・難病モノは基本、「設定だけで観客泣かせようとしてるんじゃないだろうな?」ってめちゃくちゃ警戒して観てしまう。しかも「戦争」を持ち出した時点でオチ(メッセージ)は分かり切っている。「戦争、ダメ、絶対」なんですよ。泣かせて「戦争を繰り返してはいけないと思いました~」みたいな感想で実のところそこで思考停止を促しかねないような作品がなんか意味あんのか?と思ってしまう。いや、もちろん繰り返しちゃだめですよ戦争は。でもね、演劇(や映画)で、自分とは関係のない世界の他人事として戦争の悲劇をみて泣いて「あ~自分じゃなくてよかった~」ってなるのって、なんか違うんじゃね?って思うんですよね。まぁそういう考えの人間は私だけじゃないはずで、だから、「戦争」というテーマ・戦時中という設定は、現代において演劇の時代設定にするにはとてもリスクが高い。

そんなわけで非常に警戒的なモードで観劇した私だったのですが、それでもなお、感動、つまり心を強く動かされる、という状態になりました。感動させられたというのが正しい。正直いうと一度だけ涙も出ました。なぜなんだろうと思いました。物語としてはSFだし、細かいこといえば戦時中の時代考証の甘い部分もないわけではない。

ただ本作は、そういう意味での戦時中のリアリティを写実的に描いたり悲惨さを強調したりするのではなく、「戦争、ダメ、絶対」を含みながら、それを超越した、より普遍的なところにテーマがあるからなのかな、と思った。当時の人と現代の自分との間にある共通した想い、それは家族や恋人や友人とのなにげない時間の嬉しさであったり、「自分にとって大切なもの」を探すことの難しさと見つけた時の喜びであったり、とどのつまり、生きることの喜びのようなものが舞台上に上げられて、周到な脚本演出のもと、熱く丁寧に真摯に演じられていたから、なのではないか。現代を生きる自分との共通項、「地続き感」が持てるような物語だったのだと思います。

そう考えてみれば、「主人公がタイムトリップする」という設定も、「その出来事を通して主人公が大事なものを見つけ成長する」という物語も、「あぁ事前に宣伝されていたとおりだったのだ」と気づくのですが。それでも、宣伝文句の字面では、この作品の良さの10分の1くらいしか伝わらないのがもどかしい。みてみなければわからない、観劇とは実に、そのようなもどかしい(だからこそ楽しい)体験なのだと、改めて実感します。

2 役者について

本作で私が感動させられてしまったのは、役者の力によるところもすごく大きい。役者の発した言葉や動きが空気を震わせて、客席の私たちのところまで湿度や温度とともに伝わってくる。だからこそ心動かされる。そのような観劇の原初的な喜びを感じられる役者陣の熱量だった。皆さん良かったのですが、一部のみ。

1)子役がすばらしくいい

子役がうまいのか、脚本演出における「子ども」の使い方がうまいのか、多分その両方なのだが、とにかく子役の出ているシーンがびっくりするほどいい。単純に子役としての基礎ができているというだけでなく、「物語の湿度」とでもいうのか、ヒューマンドラマの笑いと涙のバランスをとっている重要な役割のように思えた。子役がこの作品の良さを少なくとも3割増しくらいにはしている。「『舌を巻く』とはこのことか」という感想を持った。是非一度みにいってほしい。

2)純名里沙さんの歌声

聴かせる。一幕最後の歌声が絶品。

3)辰巳雄大さんの演技力

以前、「ぼくの友達」でその演技力に、終演後の開口一番「辰巳くんは役者で食っていけるね…」という、いったい誰目線なのかという感想が口をついて出たのですが、本作の演技はそれを上回る出来栄え。

クライマックスの出征シーンは辰巳くんの演技力なしには成立しないと思われます。以前、辰巳くんが「脚本に出てこないことでも、戦時中の人が何をみたりみられなかったりしたかは調べる。演じる上で必要だから」(ニュアンス)的なことを言ってたんですが、さもありなん。本作をみて、辰巳くんの演技にはその役の人生がちゃんと見えるなーと感じました。待ちの芝居のときも、その場限りのリアクションじゃない、「あぁこの役柄なら、そこでそういう対応になるよね」と思わせる説得力がある。

たとえば、今回の役はまじめで実直な人物でしたが、あるシーンで、みんなが笑っていても一緒に笑う(空気を読む)ことは絶対にしない、というのをみて、「こういうところがちゃんと『役者』なんだよなぁ」と思った。ご本人は普段とても空気を読む方だと理解してますが、役として不合理なことは決してしない。役柄として「自然」な表情やリアクションをとるには、才能もだけど、演技プランを理解してないとできない。そのあたりに、役者としての訓練や努力(考えること)が垣間見える。もちろん技術的にはまだまだ伸びしろもあるのでしょうが、今後の出演作品もすごく楽しみな役者さんです。

(個人的には、救いようのない悪い人とか、すべてにやる気がなくて「めんどくせぇ」とか言ってるダメ人間の役をどう演じるのか見てみたい。というのも、これはご本人の属性にはなさそうなので役者の技量が問われる気がする。)

3)河合郁人さんの器用さ、見せ場の切れ味

役者としてという意味では、一人二役の演じ分けがとても良かった。軽薄さと真面目さという対極の性格をうまく演じ分けていましたね。後半、役の入れ替わりを一瞬の表情変化で示すシーンがあるけれど、スイッチの切り替えに「キレ」のようなものがあって、見せ方の要所を外さない役者なんだなぁと感じました。見せ場の切れ味がいい。これは舞台人としての大きな強みだと思います。

ただ、殴りかかる時は周囲に止められる前に止まらないでほしい。ご本人の優しい性格が出てしまっているのか。「怒りのあまり殴りかかって周囲に止められる」という動きは、ある種の「型」なので、これができるともっと上手く見えると思う。コインロッカーベイビーズの時も感じたけど、ここだけは本当に惜しい。公演後半で克服されるかもしれない。されたら嬉しい。

 

3 気になったところ

もちろんないわけではないけど、「懸念される」というレベル。

1)活動弁士

活動弁士狂言回し的に活かす演出がすごく面白いなと思ったんですが、「やりたいことは分かるけどちょっとひっかかりが気になる」という出来であったことは否めない。でもこれは、公演を重ねるにつれてよくなるかもしれない。声が響きにくい構造なのか、声量が全体に弱めなのも原因かもしれない。

2)「萌えポイント」はあからさますぎない方が萌えるのではないか

河合くんと辰巳くんの絡み(?)があからさますぎるシーンは必要なのか。今のところストーリー上あまりに不自然ということはギリギリないけど、公演重ねるにつれて過激化しそうで、演劇ファンとしては、若干の懸念を抱いている。しかしこれは好みによるかもしれない。

 

というわけで、演劇ファンとしてとても良い時間を過ごせた作品でした。出演者のファン・オタク以外にも、演劇好きな人に幅広く見てもらえたらいいなぁ。

 

追記:

演出でよかったところ。オープニング、物語全体をカットごとにダイジェストでみせる)には現代演劇でここ数年好んで使われるコラージュ的な手法が感じられておもしろかった。(公演期間後半に向かって、もう少しカットごとのキレが出てくるのかな)

あと、音響(BGM)がベタと奇抜の間の適度な選曲でよかった。ここにも、適度な抑制というか、完全にベタには流れない品のようなものがあった。

「Le Pere 父」感想

記録しておこうと思ったのに忘れていた「Le Pere」の感想。今更だけど書く。

評判通り素晴らしかった。配役・セットの変化、リフレインを巧みに使って、認知機能に狂いを持つ主人公が体験する日々の世界の混乱と滑稽さを、観客に直接体験させる仕掛けは演劇ならではの面白さ。可笑しみと哀しみを表現する橋爪功さん若村麻由美さんの上質な演技に感服。

この世は舞台、人は皆役者、というあの有名な台詞を思い出す作品だったな。人生はまるで、自分の役どころもストーリーも上演時間も知らされずに、幕が上がってしまった舞台のようなもの。本心はまごつきながらも知ってるふりして演じきるしかない。大人になれば少しは慣れて、器用に演じられるようになるけれど。

認知機能に狂いが生じるというのは、こうしてようやく慣れてきた筈の「お約束」が少しずつ壊れて、まるで「この部屋は私の部屋」「この女優は私の娘」という「舞台上のお約束」が暗転が明けるたびに微妙に変わるシーンをアドリブで乗り切らなきゃならない、そんな毎日を生きるようなものなのだなぁと。